第4節 工場の新増設

第3項 年産200万台体制へ―堤工場の建設と既存工場の拡充

自動車の資本自由化に関する日米自動車交渉のさなかの1968(昭和43)年10月、トヨタは念願の月産10万台を達成した。資本自由化に対処するため、さらに量産体制の確立を推し進めた。年産200万台は、自由競争の時代に欧米の先進メーカーと肩を並べて生きていくための一つの目安であった。なお、この時点で年産200万台を達成していたのは、GM、フォードの2社であった。

年産200万台体制の確立を図るため、また、乗用車市場における需要の多様化に対処するため、トヨタは元町工場、高岡工場に次ぐ3番目の乗用車専門工場として堤工場の建設に着手した。

堤工場の用地は、1967年1月に工場誘致の申し入れを受けて取得の準備に取りかかった。その後、1969年3月から翌年3月にかけて、用地を譲り受けたもので、敷地面積は約100万m2に達する。本社から約6㎞の近さで、本社、元町、上郷、高岡、三好の各工場のほぼ中央に位置している。

堤工場の構想については、1968年以来たびたび検討を重ねた結果、次のように決定した。

  1. 1.セリカ、カリーナの生産拠点とする。
  2. 2.本社工場と並ぶ機械加工・熱処理の生産拠点とする。
  3. 3.上郷工場と並ぶトランスミッションの生産拠点とし、アルミダイカスト部品の生産も行う。
  4. 4.元町、高岡工場と並ぶプレスから総組立までの乗用車生産拠点とする。
  5. 5.プラスチックなど新規開発部品の生産工場とする。
  6. 6.造型能力を強化するため、プレス型、ダイカスト型、プラスチック型などの製作を行う。

また、シートの設計能力の向上と生産の合理化を図るため、これまで外注していたシートを堤工場で内製化することにしたほか、車の軽量化を目的とするプラスチック部品の大幅採用に対処して、射出成形、FRP(繊維強化樹脂)および塑性加工などの生産工場にすることもあわせて決定した。

1969年1月に、堤穎雄常務取締役を委員長とする堤工場建設委員会が設置され、翌2月には新しい工場のレイアウトが決定した。工場用地の東地区を機械・鋳物ゾーンに、西地区をプレス・組立ゾーンに分割し、車体工場を20万m2、機械工場を10万m2と大きなものにした。また、組立工場は2階建て工場とした。

1969年7月の整地作業完了を待って、本格的な建設工事が始まった。同年末に建屋がほぼ完成し、最新鋭の設備が次々と運び込まれた。翌1970年4月にはアルミ鋳物工場、5月には機械工場が操業を始め、セリカ、カリーナの足まわり部品の生産を開始した。続いて10月にはプレス工場、11月にはボデー、塗装、組立工場と順次操業を開始した。同年12月、組立ラインにおいて完成修祓式を行い完成をみた。1

車体工場の組付ラインは、2車種を同一ラインに流すため、サイドメンバーとアンダーボデーの組付工程に新しいゲートライン方式を導入した。この方式はサイドメンバー部分とアンダーボデー部分の組付治具を自由に分離、結合できるようにしたもので、これによってアンダーボデーが共通でスタイルが異なるカリーナ、セリカの生産比率を自由に変更し、その生産変動に対応できるようになった。

200万台体制確立のため、堤工場の新設と並行して既存工場の拡充も積極的に行った。上郷工場では、相次ぐ新エンジン、新トランスミッションの開発・実用化に対処して、毎年のように新しい工場棟を建設していった。1970年2月には、K型系エンジンとR型系エンジンの能力不足を補うとともに、カリーナ、セリカ用のT型系エンジンの生産開始に備えて、第7機械工場の第2期工事を完成し、同年3月に第4鋳物工場を建設した。

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