第1節 対米乗用車輸出の自主規制

第2項 カナダ、ECに波及

1981(昭和56)年5月1日、通商産業省(現・経済産業省)は大臣談話として、日本製乗用車の対米輸出を1981年度から3年間を限度に自主規制し、初年度の枠を168万台とする措置の骨子を発表した。日本の自動車業界は、前年実績の182万台並みの水準で、2年間であれば協力できるとの意向を伝えていたが、初年度の輸出枠は168万台となり、上限枠・期間とも業界側の主張は受け入れられなかった。

この年から日本車の対米輸出は、管理貿易の時代へと突入することになった。自主規制措置に関する大臣談話では、「いかなる場合においても1983年度限りで終了するものとする」という一文が盛り込まれたが、米国のメーカー各社の再建ははかばかしくなく、1984年度も枠を185万台に増やしたうえで、自主規制を継続した。その後も最大時で230万台を上限とする規制が続き、1993年度末をもってようやく撤廃された。

対米輸出自主規制の実施により、日本の自動車業界が懸念したのは、隣国カナダと欧州向け輸出への波及であった。日米間の自動車通商問題とともに、これらの地域でも貿易摩擦が深刻度を増していたからである。

カナダでは、米国の自動車産業の不振が持ち込まれる形で、雇用が悪化しており、カナダ政府は、日本車の対米輸出自主規制を契機に、日本車が大量に流入することを警戒し、日本政府に米国向けの規制と同じ措置を強く求めてきた。これに対して、日本政府は当初、カナダとの間の貿易収支では日本側が赤字となっているため、応じられないとしていた。しかし、1981年1~3月期のカナダ向け乗用車輸出が9割近く増加したことなどから、1981年度については、「前年度実績の10%増、17万4,000台強にとどめる」との政府見通しを6月に発表し、これを日本側の自粛宣言とすることで決着させた。

一方、欧州では、1980年に民族系メーカーで構成する欧州自動車製造業者委員会(CCMC)や欧州金属労働者同盟(EMF)が、欧州共同体(EC)委員会に日本車輸入への対策措置を要請した。これを受けて、同年11月にEC外相理事会は、「早期、効果的な抑制」を要求する対日声明を採択し、翌1981年1月にはEC議会が共同政策により、日本車との競争から欧州車を守るとの決議を行った。

さらに、ECは1981年3月に日本とEC諸国間との貿易不均衡の是正を図るため、日本製の乗用車、カラーテレビ、数値制御(NC)工作機械の3品目について対日輸入監視に踏み切った。

日本とECの政府間協議では、EC側が全域での日本車の輸出自粛を求めたのに対して、通産省は各国で事情が異なることなどをあげ、基本的には2国間交渉1で対処していった。

1981年には西ドイツとベルギー、オランダが輸出の抑制を求め、日本政府は同年の輸出が緩やかな伸びにとどまるなどの見通しを提示し、事実上の自粛措置を決定した。この結果、独自に国産化規定を設けている国や、現地産品購入の条件付き関税制度を導入した国などを加えると、欧州での自由市場はスイスと北欧4カ国のみとなった。

一部の国では、1960年代からの規制が1980年代以降も残存し、例えば、1991年の直接輸入枠としてイタリア4,500台、スペイン1,200台など、対日輸入数量制限が1992年まで継続した。

対米自主規制の実施により自動車業界が懸念したカナダ、欧州への輸出自主規制の波及は現実のものとなり、先進諸国に対する完成車輸出は、1980年代の初頭に大きな転機を迎えた。

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