第4節 自動車部組立工場と挙母工場の建設

第2項 挙母工場の用地選定と建設計画

豊田自動織機製作所では、1933(昭和8)年9月1日に自動車事業への進出を正式に決定すると、本格的な自動車量産工場を建設するため、工場用地の調査を開始した。豊田喜一郎たちは、碧海郡刈谷町周辺を中心に、近隣の知多郡大高町、同東浦町、西加茂郡挙母町などの調査を行った。

最終的に挙母町を工場用地に選定した理由としては、次のようなメリットがあげられる。

  1. 1.論地が原と呼ばれる広大で不毛の原野があり、低廉な価格で60万坪に及ぶ用地が取得可能であった。1
  2. 2.三河鉄道(現・名古屋鉄道三河線)を利用して、生産用設備、資材の輸送が可能であった。さらに、工場建設に適した強固な地盤があり、良質・豊富な地下水(矢作川の伏流水)が利用できた。
  3. 3.矢作川水系の水力発電による電源が豊富で、割安な電力を矢作水力から受電可能であった。
  4. 4.土橋に建設された衣が原飛行場は、飛行機事業に好都合であった。2

このうち4番目の点については、1938年11月に挙母工場が完成するとともに、トヨタ自工では航空機研究室を設置し、片岡文三郎3ほか1名を1939年5月6日付で採用して、ヘリコプターの研究を開始している。また、衣が原飛行場を利用して試作プロペラの試験などを行った研究実績から判断すると、用地の選定に際して、飛行場の存在はかなり大きな要素になったといえる。

1933年11月、豊田自動織機製作所は、挙母町の中村町長に対して工場用地買収の斡旋を依頼した。翌1934年7月には挙母町議会に工場誘致委員会が発足し、買収交渉は困難を伴ったものの、1935年12月に豊田自動織機製作所は58万坪(約200万m2、実測62万51坪)の用地を総額22万8,611円64銭(平均坪単価30銭)で取得することができた。

工場の建設は、取得用地の約3分の1にあたる20万坪(66万m2)を用いる計画が決まり、1935年12月14日に地鎮祭を行って整地工事に着手した。そして、乗用車500台、トラック1,500台、合計月産2,000台の自動車一貫生産工場の設計が始まった。各工場の設計は製造担当者が専門の立場で分担し、鋳物工場は原田梅治と池田茂勝4、鍛造・熱処理工場は齋藤尚一、機械工場は岩岡次郎と島千広5、プレス・ボデー工場は白井武明6、塗装・メッキ工場は木村富士信、組立工場は島千広、試験研究設備は木村富士信がそれぞれ担当することになった。工場設計担当者の大部分は、20歳代の技術者であった。

さらに、各担当者が設計した図面を菅隆俊7、齋藤尚一、豊田英二が検討し、原案を作成した。こうして、1937年1月に工場全体の計画図が完成し、工事入札のための説明会が開催された。

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