第2節 自動車試作

第1項 自動車製作部門の設置

豊田自動織機製作所の事業は、既存の自動織機に紡績機械が加わったことにより、業績が向上に転じ、先行きの見通しも明るくなった。この機をとらえて、豊田喜一郎は、1933(昭和8)年9月1日に自動車製作部門を設置し、自動車試作の準備に取りかかった。同部門は、職制上の正式な組織ではなかったが、従来から喜一郎のもとで実質的に自動車を調査・研究してきたチームであり、本格的に自動車の試作に着手した。

喜一郎は、自動車製作部門の設置に先立ち、かねてから調査済みの自動車製造用工作機械を購入するため、1933年6月に大島理三郎取締役を米欧へ派遣した。大島取締役は、海外視察の名目で鈴木利蔵取締役とともに横浜から米国へ向けて出発1し、目的の工作機械を購入したうえで、1934年3月に帰国した。

一方、喜一郎は、試作車の基本構想を検討し、当時わが国で広く普及していたフォード車やシボレー車の補給部品をユーザーが利用できるように、これらの車と互換性のある部品として設計する方針を固めた。すなわち、エンジンは原理的な構造のシボレー車を、トラック・シャシーは丈夫な構造のフォード車を、それぞれモデルとしたのである。乗用車については、先端的な流線型スタイルを採用したクライスラー系デソート車のボデーとシャシーを参考にした。

1933年10月には33年型シボレー乗用車を分解して部品をスケッチ(採寸、図面化)し、自動車を構成する部品を理解しながら、エンジン試作用図面をつくった。さらに、翌1934年には34年型乗用車のデソート車とシボレー車を購入し、それらを参考に設計した。分解した自動車部品は、材質や強度、硬度などを調査するだけでなく、国内の外国車用イミテーション・パーツ製造業者や、材料の供給業者なども調べた。

また、自動車事業の経験がまったくなかったところから、それに携わったことがある経験者を招聘した。中京デトロイト化構想のもとに製作された乗用車「アツタ号」に関係した菅隆俊が1933年11月に、白楊社で「オートモ号」の開発・製造に携わった池永羆が1934年3月に、それぞれ豊田自動織機製作所に入社した。その後も日本GMに在籍した神谷正太郎、花崎鹿之助、加藤誠之が1935年に、治郎丸友恒、沢喜右衛門が1936年に、白楊社に在籍したことがある倉田四三郎が1936年に、大野修司が1937年に入社するなど、自動車事業経験者の採用が相次いだ。喜一郎の高校・大学の学友であり、日本エアブレーキで3輪自動車の開発に携わった伊藤省吾も、1937年5月に入社した。

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