第3節 豊田喜一郎の自動織機開発

第3項 豊田紡織修繕工場での「G型自動織機」製造

完成した新型自動織機は、「G型自動織機」と呼ばれた。豊田紡織としては、自動織機の製作を豊田式織機に依頼することを考えていたが、既述のように試作機の製作段階で同社の協力が得られなかったため、豊田紡織の修繕工場で製造することになった。

紡織工場に付属する既存の修繕工場では手狭であったところから、1924(大正13)年末に名古屋市中区西日置町の愛知鉄工場を野末作蔵から借り受けた。工場主の野末は豊田佐吉の知人であり、佐吉が初めて発明した動力織機用の鉄製部品を1895(明治28)年に製作して以来、織機の部品製造を請け負ってきた。愛知鉄工場では、1924年まで豊田式織機の仕事も続けたが、同年7月に廃業届を出していた。

日置町修繕工場では、新たに鋳造設備を設けたほか、足りない工作機械を輸入機などで補充して生産準備を整えた。さらに、機械加工の寸法精度を確認するための限界ゲージを導入し、部品の互換性の確保を図った。こうして、1925年11月にG型自動織機の1号機が完成した。

G型自動織機は、1926年3月末までに豊田紡織の刈谷織布工場(旧試験工場)に増設分240台が据え付けられ、同年9月末には520台が順調に稼働するようになった。

豊田紡織の日置町修繕工場は、豊田自動織機製作所の新設工場が稼働開始するまで、G型自動織機の製造を担当した。この間の製造台数は1,023台であった。なお、同工場は豊田自動織機製作所に引き継がれ、日置作業場として利用された。

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