第2節 自動車試作

第7項 「自動車製造事業法」の許可会社に指定

昭和初期(1930年代前半)のわが国の自動車市場は、既述のとおり日本フォード、日本GMの両社による組立生産車が大部分を占める寡占状態にあった。陸軍省は、フォード社、GM社の日本進出以前から、軍用トラックの製造に対して助成を行っていたが、国産自動車工業が確立するまでには至らなかった。日本フォード、日本GMが米本国から輸入する組立生産用自動車部品は年々増加し、日本の貿易赤字を拡大させる要因となり、さらに国防の面からも、国産自動車工業の確立は差し迫った重大な課題となっていた。

商工省は、1931(昭和6)年5月に自動車工業確立調査委員会を省内に設置し、国産自動車製造計画の検討を開始した。その結果、民間自動車会社3社を合同して、商工省標準型式自動車を設計・製作することになり、翌1932年3月に9台の試作車が完成した。しかし、商工省の計画は2年後に破綻し、この自動車国産化構想も実を結ばなかった。

こうした状況のなかで、1933年9月、豊田喜一郎による豊田自動織機製作所の自動車事業が始動し、同年12月には鮎川義介が自動車製造株式会社(現・日産自動車)を設立した。既述のように、商工・陸軍の両省は、1934年4月に自動車製造関係会社7社を集め、自動車国産化に関する意見を聴取したが、その際、鮎川の説明からGM社との提携による国産化の構想が明らかになった。GM社と提携して、当初は自動車部品を製造し、20年がかりでシボレーを国産化するという計画であった。1

自動車製造株式会社の国産化構想は、陸軍省の反対によって実現しなかったが、この一件は、今までの国の施策に変化をもたらした。すなわち、国が国産化の方針を決め、それに沿って民間企業を助成するのではなく、自発的に国産化を進める民間企業が国の設けた方針・要件に適合すれば助成する、という方向に転換したのである。

その方針や要件を決定するため、「自動車工業確立ニ関スル各省協議会」が設けられ、1934年8月10日に第1回の会合が開催された。関係する省は、商工省のほか、陸軍省、海軍省、鉄道省、大蔵省、内務省、資源局、外務省、拓務省(外務・拓務の両省は第13回から参加)などであった。

1934年9月4日の第7回会合では喜一郎が意見を述べたのは、既述のとおりであるが、そのほか、同じ会合で日産自動車の鮎川義介社長、自動車工業の加納友之介社長、8月29日の第6回会合で三菱重工業の斯波孝四郎会長、川崎車両の下田文吾専務、9月7日の第8回会合で三井鉱山の牧田環会長などが意見陳述を行った。結果的には、実際に自動車の量産を目指して工場建設に着手していた豊田自動織機製作所と、日産自動車が当初の許可会社に指定されることになる。

このような過程を経て、「自動車製造事業法」が1936年5月29日に公布され、7月11日に施行された。2豊田自動織機製作所は、早速7月23日に「自動車製造事業法許可申請書」を提出し、9月19日に商工省から許可会社の指定を受けた。なお、日産自動車は同日に、その後、1941年4月9日には東京自動車工業(同月30日、ヂーゼル自動車工業に改称)が指定され、自動車製造事業法の許可会社は3社となった。

豊田自動織機製作所は許可会社の指定を受けた際、商工省工務局長から、自動車製造用の材料・部品について、国産品を使用することが伝達された。そして、1938年以降は国産部品の使用が義務づけられた。

一方、「自動車製造事業法」の施行により、日本フォード、日本GMの組立生産は厳しい状況に置かれた。生産台数が制限されるとともに、部品の輸入関税が大幅に引き上げられ、例えばエンジンの税率は従価35%から60%へと上昇した。このため、日本フォードはトヨタ自工や日産自動車との提携を模索し、1938~39年に提携交渉を進めたが、合意には至らなかった。結局、日本フォードと日本GMは、1939年に生産を停止せざるを得なくなった。

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