第9節 量産量販に向けての準備

第2項 自動車輸出とAPA特需

自動車輸出の再開と沖縄でのトヨタ

トヨタ自工の創業期の海外進出は、国策に沿って中国大陸を中心に展開された。会社独自の方針としては、南洋(東南アジア)方面を視野に入れた車両開発を検討し、その準備も行っていたが、戦争により実現には至らなかった。1

豊田喜一郎社長は、1949(昭和24)年11月の自動車技術会会報に寄稿した「自由経済下の自動車技術」と題する文章のなかで、今後生産する国産車は、「外国に輸出し得ると共に、国内の競争にも耐え得るために、品質、特徴において外国の自動車と匹敵するは勿論、むしろこれを凌駕する必要がある」と述べている。そのうえで、開発すべき自動車として、「我々東洋民族にはもっと実用的な悪道路にもたえうる経済車」という条件をあげた。2喜一郎社長は、一貫して輸出先の重点をわが国の道路事情と共通したアジアに置いていた。

1949年12月1日、「外国為替及び外国貿易管理法」および「輸出貿易管理令」が施行され、民間業者による通常の輸出が始まった。自動車については、翌1950年4月に自動車の統制価格が廃止されたのを最後に、自動車の生産、生産用資材、販売(配給割当)、価格などに関する統制・制限がいっさい撤廃された。これに伴い、自動車の輸出も自由に行えるようになった。なお、自由貿易の再開に備えて、1949年4月に自動車輸出振興会が設立され、喜一郎社長が同会の会長に就任した。

再開したトヨタ車の輸出は、喜一郎社長の方針に従い、アジアに重点を置いて進められた。1950~51年の朝鮮特需を除くと、1954年までの継続的な仕向先は、返還前の沖縄と、台湾、タイ、ブラジルの各国で、年間輸出台数は300台前後であった。1955年以降は中近東市場にも進出した。

1955~61年のトヨタ車の輸出実績は、表1-47のとおりで、1957年には前年の880台から4,116台へと大幅に増えている。これは、同年が不況であったため、国内販売の不振を輸出で補おうとした結果である。そのなかで、ランドクルーザーが2,000台近く伸びていることが注目される。ランドクルーザーは、高馬力で強靭な足まわりを備えた四輪駆動の踏破性能と多目的性が高く評価され、競合車も少なかったところから、その後も海外での需要は堅調に推移した。

表1-47 トヨタ車の輸出実績(1955~61年)


普通車
小型トラック
乗用車
合計
1955年
233
(98)
47
1
281
1956年
736
(518)
126
18
880
1957年
3,311
(2,502)
504
301
4,116
1958年
3,932
(2,815)
424
1,167
5,523
1959年
3,714
(2,689)
597
1,822
6,133
1960年
3,707
(2,403)
864
1,822
6,393
1961年
6,071
(3,812)
1,672
3,932
11,675
(注)
普通車の( )はランドクルーザー。
(出典)
トヨタ自販社史『トヨタ自動車販売株式会社の歩み』1962年11月

1962年2月には輸出体制の強化を目的に、トヨタ自工に輸出部を、トヨタ自販に輸出本部をそれぞれ設置した。後者の輸出本部については、トヨタ自工や外部からの人材で補強を行った。さらに、翌1963年8月にはトヨタ自工、トヨタ自販の共同により「工販合同輸出会議」を設置し、輸出体制の整備を図った。

一方、沖縄では、1951年4月9日に沖縄トヨタ自動車販売株式会社(現・沖縄トヨタ自動車株式会社)が発足し、トヨタ自販と代理店契約を締結した。同社は、トヨタ自工製の大型トラックBM型やFA60型、小型トラックSB型、トヨエースなどを販売したほか、米国カイザー社製の乗用車「ヘンリーJ」、1956年からはトヨペット・クラウンを取り扱ったが、経営は思わしくなかった。3

1957年6月には沖縄で小型タクシーが認可されたことに伴い、トヨペット・クラウン・デラックスRSD型を輸入し、左ハンドル仕様の国産車として初めてタクシーに用いた。大型外国車一辺倒のタクシー業界が小型車に切り替えたため、同年の沖縄トヨタの販売台数は368台と、前年の3.5倍に増加した。これを機に、同社の経営は軌道に乗った。

なお、沖縄では、1962年12月13日にトヨタカローラ沖縄株式会社、1971年4月1日にトヨタオート沖縄株式会社(現・株式会社ネッツトヨタ沖縄)が設立され、1972年5月15日の日本復帰後、1973年1月11日に株式会社トヨタレンタリース沖縄、1979年10月2日に沖縄トヨペット株式会社が設立された。

このページの先頭へ