第1節 元町工場の建設とTQCの導入

第1項 乗用車専門工場―元町工場の建設

1956(昭和31)年以降、旺盛な自動車需要に対応するため、月産1万台体制の確立を目指した設備増強計画が着々と実施された。

既述のとおり、1957年7月に発売されたトヨペット・コロナST10型は、関東自動車工業でボデーを製造し、完成車にされていた。いずれはトヨペット・クラウンRS型と同様に、トヨペット・コロナは内製ボデーを架装した完成車として出荷することになるが、そのためには、車体、塗装、総組立などの各工程の能力増強が必要であり、挙母工場は手狭だった。

既にコロナの次期モデルの開発(1次試作開発ナンバー:30A)は進行中であり、その生産設備を含めて、将来のために乗用車生産工場の新設が検討された。

工場建設候補地は、挙母工場から北西2.5kmほどに所在する、元町の東海飛行機挙母工場の跡地であった。戦時中、国が東海飛行機のために買収した約20万坪(66万m2)の国有地であり、戦後は一部が農地として開墾されていた。国有地の払い下げ、買収により、1959年3月までに新工場の第1次用地として合計約10万坪(33万m2)を確保した。

新工場は、乗用車専門工場として計画され、その建設について、豊田英二はのちに次のように述べている。

クラウンの(中略)国内市場はタクシーをはじめとする営業車、法人需要が徐々に増え、供給がおいつかなくなりつつあった。そこで石田さん(石田退三社長)に乗用車専門工場の建設を進言した。

将来のことを考え、内心「月産1万台の工場をつくりましょう」といいたかったが、当時としてはあまりにべらぼうなので、半分の5千台を提案した。国内で評判がいいといってもクラウンの月販は2千台だったから、需要が増えなければ、稼働率は3割にも満たない。5千台でも冒険だった。

新工場の建設は石田さんが決断した。(中略)

今から見ても価値ある決断だった。(中略)

新工場の設備は紛れもなく月産5千台だが、建屋だけは1万台のものをつくった。

(豊田英二著『決断―私の履歴書』180~181ページ)

1958年7月、豊田章一郎取締役を委員長とする「土橋工場(仮称)建設委員会」が発足し、新工場の構想を次のように決定した。

  1. 1.生産車種はクラウンと新型コロナ。
  2. 2.第1期計画(1959年7月完成)としてボデー工場の半分、塗装工場、内張・総組立工場、そのほかを建設。
    第2期計画ではプレス工場、機械工場、ボデー工場の残り半分、そのほかを建設。
  3. 3.生産規模は月産5,000台。
  4. 4.所要資金(第1期計画分)は約23億円。

また、工場全体のレイアウトを次のように決定した。

  1. 1.5年後には月産5万台が可能となるよう拡張の余地を残す。
  2. 2.将来、プレス、ボデー工場が全体の中心に位置するよう配慮する。
  3. 3.建物はすべて平屋建てで、梁下6m、柱間隔20mとし、配線・配管はすべて地下に収める。
  4. 4.構内道路は幅12mの舗装道路とする。

1958年9月に地鎮祭が行われ、整地工事が始まった。1この年は例年になく雨が多く、整地作業は遅れがちだった。11月中旬に整地が完了すると、すぐにボデー工場、塗装・組立工場の建設を開始し、翌1959年3月には鋳物工場の建設も始まり、次々に建設が進んだ。

建築現場からは、鋲打ち作業のけたたましい音などが響きわたった。1959年8月の工事完了を目指し、夜を徹しての突貫工事が進められた。工事が進展するなかで、土木、建築、機械、設備各社の間には協力組織も生まれた。各社の協力もあって、建設工事は順調に進み、設備の搬入が予定どおり始まった。

1959年5月、新工場の名称を元町工場と決定した。同年7月末、着工からわずか11カ月で建設工事が完了し、8月8日には元町工場第1号車のクラウンがラインオフし、日本で初めての乗用車専門工場が稼働を開始した。2生産能力は一気に倍増し、乗用車量産のための第一歩が踏み出された。

着工から数えて1年目の9月18、19日の両日には、業界関係者を含む多数の来賓を迎え元町工場で完成披露式典を挙行し、18日には生産累計50万台目の車(クラウン・デラックス)のラインオフ式も行われた。この完成披露式典で、建設委員長の豊田章一郎取締役は、各社の協力に感謝とお礼の言葉を述べた。3

引き続いて、第2期工事が実施に移された。1960年1月には、ボデー工場の拡張とプレス工場の建設に着手し、次いで3月には機械工場の建設に着手し、同年8月に完成し稼働を開始した。

モータリゼーション4に備え、元町工場には量産を意識した設備や機械を導入していった。とりわけ、プレス工場には新鋭の大型プレス機械を導入し、日本で初めての大規模なプレスラインが設置された。これによりプレス加工は本格的な流れ作業となり、材料から製品までの一貫作業が可能となった。

量産にとってマテリアル・ハンドリング(運搬管理)の合理化は、非常に大きな意義がある。元町工場では、ボデー組付、塗装、組立の3工程を一連のコンベヤーで結ぶ新しいシステムを採用した。車体工場で組み付けたホワイトボデーをドロップリフタ(昇降装置)で吊り上げ、梁下の空間を縫って塗装工場へ運ぶことにより、工場の立体的利用を実現した。

元町工場の完成に伴い、1960年8月には従来の「挙母工場」が「本社工場」に名称変更された。これは1959年1月に「挙母市」が「豊田市」に市名変更されたことにも対処するものであった。第2期工事が完成した元町工場では、クラウンとともに、新たにモデルチェンジしたコロナも製造された。

元町工場を建設した意義について、豊田英二はのちに以下のように述べている。

元町工場の建設は極端な言い方をすれば、イチかバチかの賭けだったともいえる。万が一失敗すれば、再び経営不振に陥ったであろう。こうして石田さんの決断で元町工場をつくったことで、国内の競争でいえば、それまでのどんぐりの背比べの中から、トヨタがまず飛び出したといえる。日産の追浜工場やいすゞの藤沢工場は、うちの元町工場より数年遅れた昭和37年(1962年)に完成したが、その頃元町工場は第 2期工事も終えていた。

(豊田英二著『決断―私の履歴書』184ページ)

元町工場の第1期工事が完成した1959年には、12月の生産台数が1万453台となり、月産1万台が実現した。

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