第5節 戦時下の研究と生産

第10項 統制経済下の自動車業界

自動車製造業の統制

トヨタ自工が発足した1937(昭和12)年以降、戦時経済下における物資不足が深刻になって、生産拡充は難しくなった。そして、本格的な経済統制が始まり、1938年4月1日には「国家総動員法」が公布(同年5月5日施行)された。この法律は戦時の統制基本法といえるもので、同法に基づき多くの規則が制定され、経済活動や国民生活の全般にわたり統制が進展した。自動車事業にかかわる統制としては、1938年中だけでも表1-18のような規則が公布されている。

表1-18 自動車事業にかかわる主な統制規則(1938年)

規則名
公布月日
備考
綿糸配給統制規則
3月1日
最初の配給切符制
揮発油・重油販売取締規則
3月7日
ガソリンなど石油製品の配給切符制
鉄鋼配給統制規則
6月20日

物品販売価格取締規則
7月9日
公定価格制度確立
石炭配給統制規則
9月19日

鉄屑配給統制規則
11月21日

銅・鉛・錫等配給統制規則
11月22日

また、自動車生産については、1938(昭和13)年8月4日付商工省通達により乗用車が大幅な制限を受けた。トヨタ自工では、同年9月にフェートン(幌式)AB型乗用車(軍用のABR型を含む)の生産を中止したが、翌1939年1月にはすべての民需用乗用車の生産が禁止された。

さらに、1938年度からは物資統制の根本をなす「物資動員計画」(物の予算)がスタートした。各企業は、この計画に基づいて配給される資材を、それぞれが属する組合を通して受け取ることになった。

許可会社であるトヨタ自工と日産自動車の2社は、1938年12月に「日本自動車製造工業組合」を結成し、上部組織の「機械工業組合連合会」から配給される材料を受け取ることになった。

材料によって配給方法が異なるため、自動車のように広範な原材料を用いる総合工業は、調達の手続きが非常に煩雑であるだけでなく、裾野の広い部品製造業のなかには、原材料の入手自体が困難になるところも生じた。さらに、1939年10月20日には「価格等統制令」が公布され、あらゆる物の価格が同年9月18日をもって凍結された。

このような物価統制策にもかかわらず、物資の多くが不足していたことから、需給の実態を反映して価格は高騰し、統制の効果はあがらなかった。例えば、民需向けトヨタ・トラックのシャシー(運転台なし)販売価格の推移を見ると、表1-19のとおりである。

表1-19 民需向けトヨタ・トラックのシャシー(運転台なし)の販売価格(1937~45年)

(単位:円)

年月
型式
メーカー
工場価格
ディーラー店頭価格
1937年10月
GA
2,685
3,530
1938年5月
3,070
4,095
1939年1月
GB
3,350
4,295
1939年9月
 〃 (停止価格)
1941年3月
4,000
4,400(公定価格)
1941年12月
4,100
4,530( 〃 )
1942年9月
KB
4,720
5,100( 〃 )
1943年10月
5,350
5,735( 〃 )
1944年6月
KC
6,500
6,910( 〃 )
1945年5月
12,000
12,500( 〃 )
(出典)
『トヨタ自動車20年史』148ページの表。「トヨタ自動車向上発展◇値上げと部分品増産実現」(雑誌『工業評論』1941年6月10日、32ページ)。停止価格については、工業評論の価格を採用。

そこで、政府は国策に沿った統制を官民一体で運営するため、産業ごとに統制会を設立することを義務づけた。すなわち、1941年9月1日に「重要産業団体令」を施行し、10月30日には鉄鋼、自動車、精密機械など、12重要産業部門が統制会の設立対象に指定されたのである。自動車業界に対しては、11月26日に自動車統制会の設立命令が出され、自動車製造会社6社がその会員に指定された。

同年12月24日に自動車統制会の創立総会が開催され、ヂーゼル自動車工業の鈴木重康社長が会長に就任した。自動車統制会は、生産用資材の割当配給や、自動車ならびに部品の配給機構を再編成し、流通面で統制を一元化する役割を担った。全国の部品製造業者を組織した日本自動車部分品工業組合が自動車統制会の下部機構となり、同様に車体工業部門、修理加工業部門も統制運営体制に組み入れられた。

なお、1944年1月にはトヨタ自工は軍需会社に指定され、全面的に軍需省の統制下に置かれた。豊田喜一郎は「軍需会社法施行令」に定められた会社を代表する生産責任者に就任した。

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