第5節 戦時下の研究と生産

第7項 外地における生産

1936(昭和11)年7月15日、G1型を改良したGA型トラック4台を「満州国」(現在の中国東北部)に向けて、名古屋港から船積みした。豊田自動織機製作所がG1型トラックを発表してから、わずか8カ月後のことで、これがトヨタ車最初の輸出である。

その後、中国大陸での需要増に対応して、1937年2月には上海に修理工場を建設し、自動車の修理を開始した。同工場は、トヨタ自工の発足とともに引き継がれ、これを基盤に自動車組立工場の建設が着手された。この上海工場は1939年5月に完成し、トヨタ・GB型トラックの組立生産を行った。さらに、1942年2月には上海工場を分離独立し、資本金500万円の華中豊田自動車工業株式会社を設立した。同社は工場を拡張し、部品の現地生産を始めた。

一方、1938年1月には天津工場を開設し、同年4月22日から組立工場とボデー工場の操業を開始した。トヨタ・GB型トラックとトヨタ・バスシャシーの組立生産をはじめ、各種ボデーの製作・修理、他社製日本車・外国車およびそれら部品の販売も行った。その後、部品の自給体制の確立を目的に天津工場を分離独立し、外部資本も導入して、1940年2月20日に北支自動車工業株式会社を設立した。同社は、鋳造・鍛造・熱処理・機械の各工場を天津工場に新設し、部品の現地生産とともに、中国大陸の事情に即した自動車の研究開発を担った。なお、同社の本社は北京市に置かれた。

1944年5月1日、北支自動車工業は軍の要請により、国策会社である華北交通1の自動車部と合併し、華北自動車工業株式会社となった。同社は、自動車およびその部品の製造に加えて、自動車の保守管理・整備などを業務とした。天津工場では、自動車製造事業の自立を図るため、部品の自給自足体制の強化が図られた。

なお、1942年には南方での自動車修理の増加に伴い、海南島の海口、楡林に修理工場を建設したほか、香港、ジャワ、スマトラ、フィリピン、セレベスなどにも修理工場を設けた。2

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