第4節 豊田自動織機製作所の設立

第3項 綿業不況と事業の多角化・合理化

一転して綿業不況へ

1914(大正3)年に勃発した第1次世界大戦により、英国をはじめ交戦国の綿業は輸出余力を失った。それらの国々に代わり、1916年ごろには日本の綿製品がアジア諸国に進出し、わが国の綿業は空前の活況を呈した。

ところが、1918年に第1次世界大戦が終わると、綿業界は一転して反動不況に見舞われた。さらに、1923年の関東大震災、1927(昭和2)年の金融恐慌、1929年の世界恐慌などの影響で、わが国の綿業界は1931年まで長期不況にあえぐことになった。

この間、国内の紡織業界では、操業短縮(短縮率20~30%程度)がしばしば実施され、賃金引き下げや人員整理も行われた。これに伴い、労働争議が頻発するようになり、豊田関係の事業でも、1929年8月13日に豊田押切紡織で職工13人の解雇をきっかけに争議が発生した。1この争議は、翌14日深更に解決したが、労働者側に検束者を5人も出す結果となった。2

1930年にはいっそう景気が低迷した。豊田自動織機製作所では、豊田喜一郎がプラット社との契約を終え、4月に英国から帰国したあとに労働問題が発生した。3当時の豊田自動織機製作所の状況をみると、自動織機の販売台数は、1929年の4,004台から、1930年には1,992台へと半減し、特に国内向けは2,590台から859台へと3分の1に激減するという厳しい局面を迎えていた。

豊田紡織でも、1930年に人員整理が行われた。その経緯を新聞記事によってみると、およそ次のとおりである。

1930年7月11日には盆休みを前倒しして2週間全休とし、休暇後の出社は出勤通知があるまで待機という措置が発表された。4続いて、8月4日の記事では予定どおり操業再開したものの、1,300名余りの男女職工が約700名に減少したと報じられている。5

また、8月22日の「豊田自動織機刈谷工場 罷業勃発か」との見出し記事は、21名の解雇通知に対して、労働者側がそれを拒絶し、愛知県庁の工場課長に斡旋を依頼したと伝えている。6しかし、8月27日には「昨夜の会見で 円満手打ち 会社側の申出を組合承認」と、退職手当を増額する会社案を労働者側が了承したことを報じる記事が掲載された。7

豊田紡織社長の豊田佐吉は、1930年10月30日に亡くなったが、すでに夏ごろには体調不良に陥っていた。したがって、労働争議には直接関係していなかったと思われるが、岡本藤次郎を取材した新聞記事によると、人員整理について報告を聞いた佐吉は、「他にあらゆる方法を求めても、施すべき術がないというならやむを得ないだろうが、私は今日まで工場が食べて行けないときは、一椀の食を分け合ったよ」と述べたという。8

喜一郎も父佐吉と同じ考えを持っていた。どのような事情であるにしろ、従業員の解雇は喜一郎にとって容認し難いことであった。喜一郎は、解雇によって失われた会社に対する従業員の信頼を取り戻す必要があると考え、プラット社から支払われた特許権譲渡代金の一部2万5,000ポンド(約25万円)を豊田関連企業の従業員に贈ることを決めた。1931年2月15日、佐吉の「百か日供養」を名目に、豊田関連企業9工場、6,000人の従業員に対して、総額25万円相当の金品を記念として贈呈した。9

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