第4節 石油危機への対応

第3項 企業体質改善と第2次石油危機

また、同年4月の東海協豊会総会で、豊田英二社長は仕入先各社に以下のとおり要請した。

現在では、排出ガス規制対策、国際競争力確保のためのコストダウンなどの諸活動を、今までの高度成長時代とは全く異質な低成長、あるいはマイナス成長の経済のなかで実施していかねばならない。

従来、あらゆる問題の解決を、ややもすると量的規模の拡大の中で考えがちであったが、今や発想の転換を図り、量に頼らなくとも経営の維持ができるよう、企業の体質を徹底的に改善し、さらに厳しさの予想される今年後半以降に、十分対応できるよう、従来にも増して努力してほしい。

(『トヨタ新聞』第1090号〈1975年4月4日付〉)

経営体質改善の具体的目標は、社内においても仕入先においても「年産200万台でもやっていける体制づくり」2であり、1977年以降は「80%の操業にも耐えうる経営体質」、「70%の操業でも採算のとれるように」3と高い目標を掲げて推進した。

1979年1月、会社方針の重点項目に「管理能力の向上と固有技術の研鑽」を取り上げ、4部課長がそれぞれテーマを定めて業務を改善していく「管理能力向上プログラム」を2年間にわたって展開した。製造現場の合理化に比べて管理・間接部門の効率化が遅れており、デミング賞受審を経験していない管理者が増えてきたこともあり、部課長の管理能力を高める必要性を痛感したのである。

役員も部課長の指導を通じて、自らの経営管理能力を高めることが期待された。豊田章一郎副社長以下の役員は、2年間にわたって部次長による改善事例発表をすべて聞いて現状の問題把握に努め、この改善活動を全社的なものにした。

こうしたなか、1978年11月、米国政府は広範なドル防衛策を発表した。そのため、ドル安から急騰して1ドル186円となった。その後、各国の協調介入もあって円相場は落ち着きを取り戻したものの、1979年の年明け早々、事態は急変した。1月にOPEC(石油輸出国機構)第2の産油国であるイランでは国王が亡命し、2月にはイスラム教シーア派の指導者ホメイニ師が帰国し、臨時政府の樹立を発表した(イラン革命)。これが契機になって原油価格が再び急上昇し、第2次石油危機が発生した。

1979年3月、内閣の省エネルギー・省資源対策会議は石油消費節減対策を決定し、ビル暖房を19℃以下にするなど、石油の節約を呼びかけた。5月末には、マイカー自粛の一環としてガソリンスタンドの日曜・祝日全面休業も実施された。同年6月に東京で開催された先進国首脳会議では、石油消費の抑制策が打ち出されたが、その効果は薄かった。原油価格は上昇し、年初のアラビアンライト(第4節第1項掲載)の公示価格は1バーレル13.3ドルであったものが、11月には24.0ドルと倍近くになった。世界経済は停滞し、インフレが再燃したのである。

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