第5節 国内販売体制の拡充と海外市場の開拓

第5項 米国への輸出

米国トヨタの設立当初の苦境は第1部第2章で述べたとおりである。そうしたなか、1966年から、RT43L型コロナの米国への輸出が本格的に開始された。米国市場への導入にあたっては、搭載エンジン、価格について十分かつ慎重な検討がなされた。連続高速走行を考慮して、エンジンは余裕のある1,900ccとし、米国輸入車初のオートマチック・トランスミッション搭載車を設定した。また、価格も十分な装備を施したうえで、2,000ドル以上の米国車と1,600ドル前後のヨーロッパ車との中間である1,860ドルとした。

当時の米国ではセカンド・カーが普及しつつあり、RT43L型コロナもセカンド・カーとして大いに好評を博した。コロナの導入によって、対米輸出台数は1964年の約4,000台が1967年には2万6,000台へと急成長を遂げた。同時に、従来のランドクルーザーのみの輸出から、乗用車中心の輸出に切り替わっていった。こうして、米国向けの乗用車輸出が急増し、1966年以降、米国は最大の輸出先国となった。

コロナで基礎を固めた後の対米輸出を開花させたのは、1968年から輸出されたカローラである。これによって、トヨタの対米輸出は1968年に9万8,000台、1969年に15万5,000台と急上昇し、この年、米国における輸入乗用車の第2位を占めるに至った。続いて、1970年には21万6,000台、1971年には40万4,000台と増加した。

対米輸出を支えた要因の一つに、販売網の整備・拡充があった。コロナ導入時は、郡部や山間部に重点を置いたランドクルーザーの販売網があり、これを都市中心の乗用車販売網に切り替えることから始める必要があった。当初は、他社の車を扱っている店でトヨタ車を併売することから始めねばならなかったが、コロナの高性能ぶりが次第に知れわたるとともに、専売店も増加していった。

1967年2月には、米国トヨタの本社社屋をロサンゼルスの南方トランス市に建設して、米国市場の本拠地を整備した。ディーラーについても、1965年の334店を、1967年には719店、1973年には951店とした。

こうして、1960年代後半(昭和40年代)に入ると、日本車は積極的に海外市場に輸出され、世界各国でその姿が見られるようになった。トヨタもまた、それまで着実に築いてきた海外拠点を中心に、カローラ、セリカ、コロナなどの乗用車、ハイラックスなどの商用車を中心に輸出台数を伸ばしていった。輸出台数が1966年に10万台を突破して以来、1968年には28万台、1970年には48万台と順調な伸びを示した。仕向地別には従来と異なり、米国、ヨーロッパなど自動車先進国への輸出が伸び、トヨタ車の輸出台数の半数を占めるに至った。

輸出基地拡大のため、1967年7月に愛知県知多郡に名古屋トヨタ埠頭(現・名港センター)を建設した。また、1968年11月には、従来からのチャーター船に加えて「第一とよた丸」が就航した。こうした専用船による輸出体制の整備は、輸出台数の増加に伴っていっそう推進された。

このページの先頭へ