第1節 日本の自動車市場

第1項 関東大震災と米国車輸入の急増

1923(大正12)年9月1日、豊田喜一郎は東京で関東大震災に遭遇した。高校・大学の学友で、鉄道省に勤務する小林秀雄1を訪ね、自動車について話をしていたときであったという。大島理三郎の回想によると、東京まで探しに行ったが見つからず、心配しているところへ、喜一郎が泥だらけになって帰着した。

喜一郎にとって、9月1日は自動車と切り離せない日となった。10年後の1933(昭和8)年9月1日には、のちに自動車部となる自動車製作部門を豊田自動織機製作所内に設置する。

関東大震災の際、鉄道は壊滅的な被害を受け、輸送手段として自動車が大活躍した。大地震による火災から多くの人命を救出したのも自動車であり、震災の後始末から復興事業までトラックが全面的に使われた。贅沢品と見られていた自動車は実用品として、その公共性・利便性が広く理解されるようになった。

東京市電気局は、路面電車の復旧に時日を要することから、米国フォード社にトラック・シャシー800台を発注した。完成したシャシーは、1924年1月に横浜港に陸揚げされると、ただちに幌張りの粗末なボデーを架装し、市バスとして運行を開始した。このバスは「円太郎バス」の愛称で呼ばれた。

震災後の自動車需要の急増に対応したのは、大量生産体制により供給力と低価格の両面で優位に立つ米国自動車メーカーであった。米国車は価格が欧州車と比べて2~3割も安く、注文から3カ月で到着した。そのため、米国車への発注が圧倒的に多くなったのに対し、到着までに6カ月もかかる欧州車は市場から後退していった。

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