第5節 戦時下の研究と生産

第1項 蓄電池研究所、豊田理化学研究所の設置

豊田喜一郎は、佐吉の遺志を引き継いで、蓄電池の研究開発を推進してきた。

豊田佐吉は、1925(大正14)年に蓄電池の発明に対する懸賞金を帝国発明協会に寄付しており、1935(昭和10)年8月には同協会が佐吉の発案になる「理想的蓄電装置百万円懸賞募集」に基づき、「第3回蓄電池発明懸賞募集」を行った。懸賞の題目は、「鉛硫酸系に属せず、一『キロワット』時当たりの重量小に、且つ衝撃に耐ゆる蓄電池の発明」で、募集締め切り日は1936年11月4日、第1種の1等賞金は5,000円であった。第1回と第2回の懸賞募集により、鉛硫酸系蓄電池は相当の進歩が認められたため、第3回では鉛硫酸系蓄電池を除外して募集されたものである。1

こうした研究開発の成果をもとに、1939年には東京芝浦研究所のあとに蓄電池研究所を設置し、電気自動車用蓄電池の研究に着手した。蓄電池研究所では、抜山大三博士2知久健夫3、木下恭二の共同発明になる「鉛蓄電池」の特許権4を帝国発明協会から譲り受け、それを利用して東京芝浦工場で電気自動車用蓄電池の製作を進めた。5蓄電池研究所の研究活動は、豊田理化学研究所に引き継がれ、研究・製作の両面から電気自動車用蓄電池の性能向上を目指すことになった。

1940年9月には蓄電池研究所が利用していた3階建て建物と付属設備一式を提供し、財団法人豊田理化学研究所を設立した。豊田理化学研究所の設立趣旨は、わが国独自の科学技術の振興開発を図り、学術・産業の発展に貢献することにあった。この研究所では、ロッシェル塩の大型結晶の製法、蓄電池や方向探知機の開発をはじめ、多くの研究業績をあげ、それらの一部は特許取得・製品化に至った。しかし、戦後のインフレーションのため、独自の研究活動は縮小を余儀なくされた。

喜一郎は、実際技術(実技)と学術的研究が密接にかかわりあって、技術が進歩していくと考えていた。この思想は継承され、株式会社豊田中央研究所(1960年11月3日)などの創設につながった。

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