トヨタ販売店の発足

1935(昭和10)年8月9日、「自動車工業確立ニ関スル件」が閣議決定された。1その趣旨は、自動車事業を許可制とし、許可の対象となる者を日本国民が株式の過半数を所有する株式会社に限ったことである。これにより、日本フォード、日本GMの両社は、今後の事業継続が困難と考えられた。一方、その前文には「相当大規模ニ大衆車ノ製造計画ヲ有シ現ニ之ヲ進メツツアル者ニ現在ノ処日産自動車株式会社及株式会社豊田自動織機製作所ノ二者アリ」とあり、日産自動車と豊田自動織機製作所が許可会社に指定される可能性が高いと予想された。

このような状況のもと、国産メーカーへ移りたいと考えるようになった日本GMの神谷正太郎は、三井物産シアトル支店時代の知人で、名古屋商業学校の先輩でもある豊田紡織の岡本藤次郎取締役を訪ね、豊田自動織機製作所への橋渡しを依頼した。その後、豊田喜一郎常務に会って、神谷の入社が決定した。

神谷は、同じく日本GMに在籍する花崎鹿之助、加藤誠之を伴って、1935年10月に豊田自動織機製作所に入社した。早速、販売部を設置して、トヨダ車の販売組織づくりに取りかかった。

喜一郎から自動車販売体制の構築を全面的に任された神谷は、日本GMの販売組織を踏襲し、おおよそ1府県を1単位として、メーカーが資本的に関与しない販売会社を設置する方針を採用した。これに対して、日本GMはシボレー販売店の国産車販売への鞍替えを黙認したところから、トヨタの販売組織は大部分がGM系販売店、特にシボレー販売店によって構成されることになった。

1935年12月8日、日の出モータース株式会社2が「国産トヨダ号」としてG1型トラックの発表会を開催し、ボデー付名古屋渡し価格3,200円で販売を開始した。日の出モータースは、同年11月にGM系自動車の販売権を返上し、豊田自動織機製作所製自動車の販売に転向したトヨタ販売店第1号である。

続いて、1935年12月には東京トヨダ自動車販売株式会社3が設立され、トヨタ販売店の第2号となった。同社は、1936年1月19日に開店披露兼DA型バス・シャシー発表会を、本社がある有楽町の三柏ビルで開催した。

その後、1936年1月に三重県松坂市に国産自動車株式会社4、同年3月に大阪トヨダ自動車販売株式会社5、同年8月に広島トヨダ販売株式会社、同年9月には岐阜トヨダ自動車販売株式会社と静岡トヨダ販売株式会社が相次いで設立され、約1年間で合計7社のトヨタ販売店が発足した。

なお、「トヨダ」については、1936年10月以降、トヨタ・マークの採用に伴い、「トヨタ」に改称された。

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