第2節 自動車試作

第4項 G1型トラック

「豊田綱領」の制定

1935(昭和10)年、豊田佐吉にちなんだ行事がいくつか実施された。まず、4月に名古屋の豊田紡織本社に佐吉の胸像を設置し、除幕式を挙行したのに続き、翌5月にはA1型試作乗用車の完成を佐吉の墓前に報告し、自動車事業の完遂を誓った。そして、佐吉の5周忌にあたる10月30日には「豊田綱領」を制定した。

自動車事業の本格化に伴って、多くの人たちが新たに入社し、豊田関係会社に引き継がれてきた佐吉の精神を、機会のあるごとに確認する必要があったからである。例えば、佐吉胸像除幕式の式辞で、豊田利三郎社長(豊田紡織常務)は、「其ノ産業報国ノ精神ハ吾々一同常々克ク服膺シテ怠リ無カラムコトヲ期シテ居ル次第デ御座イマス」と述べている。

このような佐吉の精神や、研究発明ならびに事業経営における考え方、さらには個人的な生活信条を整理し、全豊田関係会社の構成員が目指すべき指針として制定されたのが豊田綱領である。豊田綱領は、豊田紡織本社の佐吉胸像前で発表された。

豊田綱領

豊田佐吉翁の遺志を体し

  • 一、上下一致 至誠業務に服し 産業報国の実を挙ぐべし
  • 一、研究と創造に心を致し 常に時流に先んずべし
  • 一、華美を戒め 質実剛健たるべし
  • 一、温情友愛の精神を発揮し 家庭的美風を作興すべし
  • 一、神仏を尊崇し 報恩感謝の生活を為すべし

豊田綱領を発表した1935年10月末は、G1型トラックの発表を翌月に控えた時期にあたり、自動車事業をやり遂げるための心構えを示したとも解される。自動車産業の確立を通して、社会経済の発展に寄与するという「産業報国」の目的を明示するとともに、技術開発に努めて、さらに自動車を進化させていくという「研究と創造」の決意を表明したといえよう。

このページの先頭へ