第3節 新型車の開発・販売―フルライン体制の推進

第1項 カローラ

日本経済の高度経済成長によって国民所得が急上昇した結果、日本でも1965(昭和40)年前後には、1,000ccクラスの車両価格が1人当たり国民所得の1.4倍となった。大衆乗用車を基盤とする幅広いモータリゼーション到来の気運が醸成され、ペーパードライバーからオーナードライバーになる夢が実現していく時代であった。

トヨタは、1961年に大衆乗用車パブリカを発売したが、販売台数は期待したほどは伸びなかった。本格的なモータリゼーションを引き起こすためには低価格であると同時に、夢のある新しい大衆車が必要であった。

そのため、トヨタは800ccのパブリカと1,500ccのコロナの中間に位置し、ファミリーカー需要をねらう新しい高級大衆車、カローラの開発を進めた。豊田英二はのちに、次のように述べている。

カローラはモータリゼーションの波に乗ったという見方もあるが、私はカローラでモータリゼーションを起こそうと思い、実際に起こしたと思っている。トヨタはカローラのためにエンジン(上郷工場)と組立(高岡工場)の二つの工場を建設した。うまくいったからこそ、いまごろのん気なことを言っていられるが、もし、モータリゼーションが起きていなければ、今ごろトヨタは過剰設備に悩まされていただろう。

(豊田英二著『決断―私の履歴書』197ページ)

カローラのエンジンは、新たに開発したK型である。水冷4気筒の1,077ccは、他社の1,000cc大衆車に対し「プラス100ccの余裕」として大きな反響を呼び、いわば、ゆとりのエンジンであった。1主査としてカローラの開発に携わった長谷川龍雄は、次のように述べている。

幅広いファミリーカーとして使用されるには、例えば中型車のように性能、居住性、フィーリングなどで満点に近い評価であっても、維持費や価格の面で一般ユーザーの手が出ない、いわば大衆車ユーザーからの評価が50点では、大衆車として失格です。大衆車は、あらゆる面で80点以上の合格点でなくてはなりません。後は固有技術なり、その車の特徴として特にどの点を80点より引き上げ、セールス・ポイントにするかです。

エンジンを1,100ccにしたのも、こうした意欲の現れのひとつです。

そのほかにも、カローラにはたくさんのセールス・ポイントがあります。特に技術的には新しいものをかなり意欲的に導入しました。

例えば、ストラット・タイプのフロント・サスペンション2。これは乗り心地、スペース、重量、コストなどの点でたいへん魅力的なものでした。一方、初めての機構だけに苦労も多く、ストラット・バーの最初の試作品が、わずか500㎞走行で使用不能となった時にはあわてたものです。その後、設計変更を繰り返し完全なものにしました。この機構はその後多くのトヨタ車に採用されました。

そのほか、当時は3段ミッションが普通だったのを全車に4段ミッションを採用したり、コラム・シフトをやめてフロア・シフトにするなど、当時としては思い切ったこともやりました。

また、カローラの試作にあたっては、技術部の人間が現場に駐在し、現場と技術部の調整者として問題の発生に対処していくレジデント・エンジニア制度を初めてとり入れました。3

また、大衆車として購入後の日常整備が容易な車とするため、メンテナンス・フリーの機構を採用した。足まわりを完全無給油とし、エンジンオイルは5,000㎞ごと、エンジンフィルターはカートリッジ式にして1万㎞ごと、またエアクリーナー・エレメントは3万㎞ごとの交換ですむようにした。

新しいファミリーカーのカローラは、1966年10月、第13回東京モーターショーの前に発表された。同年11月の5、6日、全国各地でカローラの発表会を実施し、若者から年配者まで幅広い層の来場者は130万人を数え、期待を担ったカローラは、好調な売れ行きを見せた。

発売当初は2ドアセダンのみであったが、翌年5月には4ドアセダンとライトバンを追加し、カローラ人気はいっそう高まった。カローラの販売台数(商用車を除く)は、1967年5月には1万台を超え、その後、1968年には16万7,000台、1969年に24万8,000台と順調な伸びを見せ、大衆車市場の首位を独占した。

カローラの出現は大衆車ブームを呼び起こし、自家用乗用車を自動車市場の中心に据えた。

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