第5節 国内販売体制の拡充と海外市場の開拓

第3項 ノックダウン輸出の進展

1960年代(昭和30年代の半ば)になると、日本の自動車各社の海外活動は積極さを増していった。日本の自動車輸出台数(年間)は、1961(昭和36)年に3万5,000台、1963年に9万台を超し、10万台の大台に近づく。こうしたなかで、トヨタも1961年に初めて輸出台数(年間)が1万台を超え、本格的な輸出の気運が高まった。

この時期、日本の自動車輸出をリードしたのは、ノックダウン1輸出であった。当時のノックダウン輸出は、輸出先国の国産化方針に合わせて、市場確保を図ろうとしたところに特色があった。トヨタもメキシコ、南アフリカ、オーストラリア、タイ、フィリピンなどに向けてノックダウン輸出を行った。

1960年には、メキシコのプランタ・レオ社2に向けてCKD3輸出を開始した。このメキシコ向けCKD輸出は、メキシコ政府により国産化率が引き上げられ、またプランタ・レオ社の破綻などの事情により、1964年3月に中止した。

南アフリカは当時、完成車輸入を抑え、CKD方式を促進する政策をとっていた。そこで、1962年にトヨペット・コマーシャルズ社4とディストリビューター契約を結び(締結調印日は、1965年1月25日)、翌年から同社を通じて、現地の組立専門業者モーター・アッセンブリーズ社5でスタウト(RK45型)を組み立てる方式で、CKD輸出を開始した。1963年にはコロナ・ピックアップ(RT26型)を追加し、トヨタは南アフリカの小型トラック市場の上位に躍進した。

オーストラリアについては、1961年2月、ティース・セールス社6と代理店契約を結び、トラックとランドクルーザーの輸出を開始した。しかし、その後まもなく、現地国産化の問題がおこったので、乗用車の現地組立ができる代理店を探していた。ちょうどそのころ、トライアンフとベンツの現地組立を行っていたオーストラリアン・モーター・インダストリーズ社(AMI)7が販売不振のトライアンフに替わる、新しい小型乗用車の組立を希望していた。

トヨタのティアラ(コロナの輸出車名)はAMIの希望を十分に満足させるものであったので、同社と折衝の末、1962年11月にはティアラの組立・販売契約に調印し、翌年初めからCKD輸出を開始した。

トラック関係については、従来どおりティース・セールス社を通じて、組立・販売活動を続けた。乗用車の追加によって、オーストラリア向け輸出は1962年の651台から1963年には4,339台に急増し、オーストラリアはトヨタ最大の輸出市場になった。その後、クラウンやトヨタ700(パブリカの輸出車名)もこれに加わり、1965年までトヨタ最大の輸出市場の座を維持した。この間、1963年7月にはメルボルンに駐在員事務所を設け、販売店指導体制の強化を図った。

1966年6月、オーストラリア政府は「スモール・ボリューム・ブラン」と呼ばれる小量生産メーカーのための国産化計画を実施した。トヨタもこの措置に基づく60%国産化プランにコロナを参入させ、許可枠を超えた分を完成輸出車で補うという方法をとった。また、1967年にはクラウンを、1968年にはカローラをこのプランに参加させた。こうした積極的な国産化対応策をとる一方、完成車輸出も行うという柔軟な方策をとったことにより、1967年にはトヨタ車はフォルクスワーゲンに替わり、輸入車の首位を占めた。主要海外市場として初めてのことであった。

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