第3節 豊田喜一郎の自動織機開発

第2項 自動織機の試作

豊田佐吉は既述のとおり、1921(大正10)年に上海に豊田紡織廠を設立し、居を上海に移したが、豊田喜一郎ほかの部下たちには自動織機の研究開発の継続を指示し、自らも上海と日本をたびたび往復し、部下たちを指導した。

喜一郎は1922年に米欧視察から帰国すると、早速、鈴木利蔵1大島理三郎2たちと本格的に自動織機の研究開発に取り組んだ。

最初は、佐吉が開発した自動織機と同じものを製作し、これに改良を加えていった。その結果、1923年夏ごろには30台ほどの自動織機が完全に動くようになった。

一方、豊田紡織では、今後の事業拡大を目指し、刈谷町で新工場の建設を進めていた。さしあたり、自動織機の試験工場としての利用が計画され、1923年12月末にほぼ完成した。そして、試験を開始するため、自動織機200台を豊田式織機株式会社に注文したところ、同社は受注を謝絶してきたのである。喜一郎たちはやむなく、部品製作を外部に依頼し、それを豊田紡織の修繕工場で組み付けて製作することとした。

この自動織機は、既存の普通織機(豊田式織機製)に、新設計の自動杼換装置(豊田紡織修繕工場製)を装着したものであった。試験は、1924年3月から5月ごろにかけて、刈谷試験工場で200台を設置して行われた。20台の試験では1カ月に2~3回程度の故障で済んだが、200台となるとその10倍以上の故障が発生し、とても実用に堪えるものとはいえなかった。しかし、この大規模な試験によって、早期に欠陥を把握できたため、結果的に開発のスピードを上げることにもつながった。

機械的な欠陥はまもなく解決したので、1924年5月中旬には自動杼換装置を組み込み、新たに設計し直した新型自動織機の試作に取りかかった。鋳物部品の原型となる木型は6月にそろい、7月には新型自動織機の試作機が出来上がった。そして、試作機の試験運転を行い、さらに改良を加えたうえで、新型自動織機が機械的に完成した。

佐吉が所有していた特許権は、既述のとおり、1913年1月に8万円で豊田式織機へ売却されていた。このため、売却分の特許は利用することができず、新型自動織機の開発には新たな発明・考案が必要であった。これらの特許は、1924年11~12月に「杼換式自動織機3」、「経糸送出装置4」、「経糸張力調整装置5」については喜一郎名で、「経糸停止装置6」については喜一郎と西川秋次の両者名で出願された。佐吉とともに苦労した喜一郎と部下たちの努力により、自動織機に関する新しい発明が次々と生まれた。

さらに、1925年3月には人為的なミスを防止するための「自動織機の予備杼溜7」を発明し、新型自動織機がより進化した形で完成した。これは、杼を収める杼溜(杼を格納する容器)に新しい杼を作業者が補給する際、正しい姿勢で杼を挿入しないと、杼溜に入らない仕組みになっている。人為的なミスによる織機の破損を事前に防止する工夫で、いわゆる「ポカよけ」の起源といえる装置であった。

こうして佐吉が自動織機の研究に取り組み、以後20有余年の努力の成果が喜一郎らによって結実した。

このページの先頭へ