第4節 自動車部組立工場と挙母工場の建設

第1項 自動車部組立工場の建設―段階的な生産能力の拡大

豊田喜一郎は、自動織機の場合と同様、自動車の製造についても段階的に生産能力を拡大していった。その経過をみると、まず試作工場を建設して、A1型乗用車やG1型トラックの試作に着手し、次いで自動車組立工場を建設して、乗用車とトラックの生産を拡充した。そのうえで、自動車製造事業法による許可会社の指定を受け、本格的な自動車量産工場として挙母工場の建設を計画したのである。

1935(昭和10)年7月9日、豊田自動織機製作所は自動車の生産設備を増強するため、上海の豊田紡織廠の全額引き受けにより、300万円から600万円への倍額増資を決定した。実際に設備拡張に着手するのは、G1型トラックの品質が安定し、1936年1月に1日5台・月産150台の生産目標を設定してからである。生産規模としては試作工場の域を脱し、本格的な量産の前段階といえる。

この自動車組立工場は、豊田自動織機製作所から北東に1kmほど離れた場所(刈谷町大字刈谷字大池1)に建設された。用地は中央紡織の所有地で、1万4,654坪(約4万8,400m2)を借用し、1936年5月に完成した。同工場は、ボデー組立工場、ボデー塗装工場、フレーム組立工場、シャシー・ボデー組立工場、メッキ工場、組付部品置場、サービス用部品倉庫などから構成された。1938年に挙母工場が完成すると、この自動車組立工場は刈谷工場と名称を変更した。1

ところで、豊田自動織機製作所の工場は、1927年の完成後、数次にわたって拡張され、トヨタ自動車工業が分離独立した1937年当時は、紡織機、製鋼と自動車の製造施設が入り組んだ状態であった。すなわち、中央部には紡織機関係の製造施設と製鋼所が配され、自動車関係の製造施設は、北部の第3鉄工場(足まわり)、第4鋳物工場の半分と第3鋳物工場、マシンツール工場(工具・工作機械工場)、南部の自動車ボデー工場(元試作工場)、自動車機関工場(同左)、電装品工場などがあった。これら自動車関連の施設は製作工場と呼ばれ、南北に分断されていた。さらに、製作工場で製造された各種部品は自動車組立工場に運ばれ、トラックや乗用車が組み立てられたのである。このような状態では、効率的な生産活動を期待することはできなかった。2

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