第4節 豊田自動織機製作所の設立

第1項 株式会社豊田自動織機製作所の設立

「G型自動織機」の大量生産

高性能の「G型自動織機」は、大量の受注が期待できたが、日置町修繕工場は500坪程度の小さな規模で、量産には適さなかった。そこで、父佐吉からの指示もあり、豊田喜一郎は1926(大正15)年2月に刈谷への新工場の建設を立案した。

佐吉の指示は、G型自動織機を月に500台生産できる規模の工場であったが、喜一郎は社内の慎重論にも配慮し、月産500台と250台の2案を策定した。11926年6月に喜一郎がまとめた工作機械の発注リストによると、特注品の専用工作機械や高性能の輸入機が掲げられ、鋳造設備では高級鋳物に対応できる電気炉や造型機(モールディング・マシン)などの導入が検討されていた。第1期工事は同年7月から始まった。

新工場の建設にあたり、自動織機製造会社として豊田自動織機製作所を設立することになった。新会社の設立は、1926年4月26日開催の豊田紡織の株主総会で提案・了承され、同年11月18日に株式会社豊田自動織機製作所が刈谷に設立された。同社の概要は、次のとおりである。

所在地
愛知県碧海郡刈谷町大字熊字油木2番地ノ1
資本金
100万円(25万円払込済み)
経営陣
社長:豊田利三郎、常務取締役:豊田喜一郎、取締役:西川秋次、鈴木利蔵、大島理三郎、監査役 豊田佐助、村野時哉

豊田自動織機製作所の設立当時、刈谷の工場は建設中であったため、G型自動織機は豊田紡織の日置町修繕工場の設備を引き継いで生産された。その後、1927(昭和2)年3月には組立工場を中心とする第2期工事に着手し、6月にこれをほぼ完了した。2ここに、月産300台の織機製作工場が本格的に稼働を始めた。3

自動織機製造事業への進出経過を振り返ってみると、まず豊田紡織の修繕工場で自動織機試作機を製作し、ついで完成モデルのG型自動織機を小規模な日置町修繕工場で一貫生産した。その後、豊田自動織機製作所の新設織機工場で量産化(月産300台)を実現し、さらに月産1,000台にまで拡充するという経緯をたどった。

このように、生産技術の習熟を図りながら、段階的に生産能力を拡充していく方法は、自動車事業への進出の際にも採用された。

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