第5節 国内販売体制の拡充と海外市場の開拓

第4項 完成車輸出

北欧では、1962(昭和37)年6月、フィンランド向けに2台のティアラをサンプル輸出して、ヨーロッパ進出の口火を切ったものの、単なるサンプル輸出に終わった。

トヨタ車がヨーロッパに本格的に進出するきっかけとなったのは、同年10月の第9回全日本自動車ショーであった。訪日中のデンマークの輸入車販売店であるエアラ・オート・インポート社1のクローン社長は、このショーに展示されたクラウン(RS40型)に注目し、落ち着いたスタイルがヨーロッパ好みであると直感し、デンマークにおけるクラウンの販売権取得を決意した。クローン社長は、同年12月にデンマークの3大都市でクラウンの展示会を開催し、大きな反響を得た。

翌1963年5月に同社と代理店契約を結び、クラウン190台を船積みすることとなり、ヨーロッパ市場への本格的輸出が始まった。

デンマークへの輸出が契機となり、1964年5月にオランダのローマン・アンド・パルキー社2と代理店契約を結び、ヨーロッパ本土へも進出する。また、当初はエアラ・オート・インポート社がスウェーデンとノルウェー両国も担当したが、その後、現地にディストリビューターが設立された。

1966年にはベルギー、スイスなどの非自動車生産国を足がかりにしてイギリス、フランス、西ドイツなどの自動車生産国にも販売拠点を築いていった。また、1968年にはポルトガルのサルバドール・カエターノ社3がヨーロッパで初めて、トヨタ車のCKD生産を開始した。

こうして、1960年代後半の基礎固めともいうべき販売拠点の設置が一巡すると、販売は急速に伸びていった。この時期は、日本車は遠距離輸送の海上運賃や関税などのために販売価格面で不利であったが、豊富な装備を標準仕様に織り込み、さらには故障が少なく維持費が安いという利点によって、次第に競争力をつけていった時代であった。また、ヨーロッパ向け輸出が本格化するにつれ、各国の自動車に関する諸法規の情報を収集し、ヨーロッパに適した製品開発を進めていく体制をとるため、1970年8月にベルギーのブラッセルに駐在事務所を開設した。

カナダでは自動車に厳しい寒冷地仕様が要求されることに加え、多額の輸入課税がかけられることから、輸出がなかなか進展しなかった。ようやく1965年にカナディアン・モーター・インダストリーズ社(CMI)4を代理店として、クラウン、パブリカ、ランドクルーザーの輸出を開始した。しかし、極寒地向けの仕様を施していなかったこともあって、販売は不振を極めた。

トヨタは、カナダの厳しい気候条件に適応する製品を開発するため、寒冷地テストを繰り返し実施した。1967年2月、カローラ2台、コロナ1台からなる寒冷地テスト隊が、雪原のカナダ大陸を西から東へと、零下30℃にも及ぶ極寒地を走破し、この経験をカナダあるいは北欧向けの車両改善に生かしていった。1973年にはワワとコクランに拠点を設置し、以来、カナダでの寒冷地テストを毎冬実施した。

こうした厳しい寒冷地テストによる製品改良、販売網の整備などにより、カナダ向け輸出台数は1967年の2,000台が、1970年には2万9,000台と伸びていった。

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