第1節 豊田佐吉の発明と考え

第3項 名古屋進出

鉄製部品を求めて

豊田佐吉が生まれ育った湖西地方は、遠州木綿の産地として知られ、綿織物業が盛んであった。佐吉の母も昼は農作業に従事し、夜は機織りに精を出していた。その機織り仕事を少しでも楽にするため、佐吉は織機の発明を志したと伝えられている。

遠州の浜松地方では、佐吉が動力織機を発明したあと、鈴木式織機製作所(現・スズキ株式会社)、鈴政式織機株式会社(のち遠州織機株式会社、現・エンシュウ株式会社)などの織機メーカーが設立された。このように、湖西に近い浜松地方に織機製造業が興る素地があったにもかかわらず、佐吉が名古屋に進出したのは、同郷の知人で金物製造業者の野末作蔵が名古屋にいたからである。佐吉は1894(明治27)年に野末を訪ね、織機用の金物製作を依頼した。翌1895年に野末は織機用鉄製部品を製作し、その部品は動力織機の試験工場で組み付けられた。そして、1896年には動力織機の試作が完成し、試験運転と改良ののちに翌年実用化され、1898年に特許権を取得したことは、既述のとおりである。

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