第7節 設備近代化

第1項 フォード社での研修と米国機械メーカーの視察

1950(昭和25)年6月10日、トヨタ自工では2カ月に及ぶ労働争議が終結した。まず、会社側から新職制が発表され、新労働協約や給与制度改定の労使交渉など、再建策の実行に向けて取り組みが始まった。このような状況のなかで、トヨタ自販の神谷正太郎社長は、関東自動車工業の奥田秀次郎社長1を同道し、同年6月23日に米国出張に旅立った。

出張の目的は、米国自動車産業の視察と、フォード社との技術提携契約の交渉であった。約半月遅れて7月11日に米国へ出発した豊田英二常務は、「自販の神谷さんが先発隊として一足先に訪米し、交渉を進め、簡単な技術指導をしてもらうことでまとまり、私が訪米して契約書にサインする段取りになっていた」と回想している。2提携交渉は順調に進み、調印直前の段階にまで至ったが、6月25日に勃発した朝鮮戦争の影響で、結局、技術提携契約は白紙還元となった。フォード社との交渉を済ませた神谷社長、奥田社長は、英二常務を残して、9月30日に帰国した。

フォード社と合意された契約の内容には、3人の技術者の派遣が含まれ3、トヨタ自工の生産規模に適応した技術提携が構想されていた。しかし、朝鮮戦争の勃発に伴い、米国政府から海外投資の禁止とともに、重要技術者に対する禁足令が出されたため、その実現も不可能になった。こうした事態を受けて、フォード社は技術者の派遣に代わり、トヨタ自工から研修者の受け入れを了承した。

これに沿って、英二常務がフォード社での最初の研修者となり、7月20日から9月8日までの約1カ月半、ルージュ工場、ハイランドパーク工場、マウンドロード工場、イプシランティ工場、ディアボーン工場、キャントン工場などの見学を行うとともに、フォード社の各担当者から講義を受けた。4そのほか、クライスラー社、バッド社、ティムケン・デトロイト・アクスル社、マスケゴン・ピストン・リング社、バウワー・ローラー・ベアリング社などを見学した。

さらに、英二常務は8月7日~9月29日に工作機械会社21社を訪問し、最新工作機械の視察を行った。そのうち15社はトヨタ自工の創業期に工作機械を導入した会社で、工作機械の性能進歩を現物で直接確認し、今後の設備更新の参考データを入手した。

英二常務に続いて、10月3日には齋藤尚一常務が渡米し、約1カ月半にわたりフォード社のルージュ工場で研修を受けた。帰国した齋藤常務は、フォード社の提案制度を参考に、広く一般従業員からアイデアを募集する提案制度をトヨタ自工に導入した。1951年5月から運用が始まった「創意くふう提案制度」である。同制度は、時を経るに従って充実・拡大されていった。

フォード社での研修を終えた英二、齋藤の両常務が口をそろえて言及しているのが、米国で使用されている材料の予想外の良さである。すなわち、英二常務は自動車技術会の取材に対して、「日本の自動車工業の設備と技術者は良いが、工作機械と材料が劣っている。この問題さえ解決できればアメリカに負けない良くて安い車をつくることができる。今度の視察旅行で得た結論はこれだ」と述べている。5豊田喜一郎が自動車事業への進出に際し、鋼材と工作機械を内製したのも、当時の日本では材料と工作機械が不十分であったからである。それから17年を経た1950年時点でも、同じ問題を抱えていたということができる。

のちに英二は、フォード社での研修を回顧して、次のように述べている。6

「フォードはトヨタが知らなかったことはやっていなかった」というのは偽らざる気持ちだが、といって「フォード恐れるに足らず」と思い上がったわけでもない。

フォードの生産は日産八千台に対しトヨタはわずか四十台。企業規模は月とスッポンほどの違いがある。技術面ではそう大きな差はなかったと思う。違いは生産規模で、トヨタの規模が大きくなれば、日本でも米国流の生産方式は十分にこなせると思った。

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