第1節 豊田佐吉の発明と考え

第6項 蓄電装置の開発・発明への支援

動力に対する関心

豊田佐吉は、「環状単流原動機」を発明したように、動力そのものに対する関心も高かった。

日本初の動力織機「豊田式汽力織機」は、商品名に汽力とうたわれていたが、動力には蒸気機関だけでなく、石油発動機も用いられた。その説明書によれば、動力1馬力で同織機20台を運転することができた。

佐吉が運営した工場の使用動力を見ると、1904(明治37)年の豊田第1織工場(豊田商会武平町工場)が石油発動機1台で3.5馬力、1909年の豊田式織機(前豊田商会島崎町工場)がガス発動機1台で24馬力と石油発動機1台で3馬力、1916(大正5)年の豊田自動紡織工場(豊田紡織本社工場の前身)が蒸気機関(300kW発電用)1台で400馬力、買電が720kWとなっている。1

豊田自動紡織工場が発電用にスイスのスルザー社製400馬力ユニフロー蒸気機関を導入したのは、1914年である。当時、名古屋周辺で自家発電用の蒸気機関を導入した例は、佐吉の豊田自動紡織工場と弟平吉の豊田織布押切工場があげられる程度で、珍しい存在であった。1916年には工場の増設に伴い、上述のように名古屋電灯から720kWの電力供給を受けるようになった。

1910年代は、全国的に工場の動力源が蒸気機関やガス発動機などから、電力に統一されていく過渡期にあたった。全国の染織(染色と織布)工場の電化率は、1909年の8.9%(全工場では13.3%)から、1914年には22.4%(同30.1%)へと上昇し、以後電化率は急速に高まっていった。2

ところで、1922年秋から1923年春にかけて、平吉は欧米視察旅行に出かけ、ドイツ製電気自動車を購入してきた。3自家発電による電力を動力源とし、喜一郎も利用したとのことである。しかし、当時の蓄電池の性能では、一晩充電しても走行できる時間は限られ、走るよりも充電している時間のほうがはるかに長かった。

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