第5節 国内販売体制の拡充と海外市場の開拓

第1項 パブリカ店(のちのカローラ店)の設立

トヨタは初代パブリカの発売を前に、その量販体制を確立するため、既存の販売店チャネルとは別に、パブリカ専門の販売チャネルを新設する方針を決め、1960(昭和35)年秋に準備に入った。

パブリカは本格的な大衆車であり、大量に販売していくためには多くの地域にくまなく販売店を設置する必要があった。そのためには多数の小規模販売店を自由に競争させる米国式のディーラーシステムが効果的であり、消費者にとっても好ましいと考え、パブリカ店の設立と運営方針を次のように決定した。

  1. 1.地元の新資本と人材を集める。
  2. 2.販売店の数はできるだけ多く、規模は小さくてもよい。
  3. 3.大府県には複数の販売店をおき、同一販売地域(同一府県内)で同一車種を複数の販売店が販売する本格的な複数販売店制(オープンテリトリー制)を採用する。
  4. 4.卸売りはCOD(キャッシュ・オン・デリバリー)方式1とする。

大都市では大衆車販売に関心を示す事業家も多く、パブリカ店の設置は比較的順調に進んだ。しかし、地方の県では販売店設置は必ずしも思うようには進まなかった。結局、パブリカ発売の1961年6月末までに、パブリカ販売店として東京7店、大阪5店、愛知3店、神奈川2店、京都、神戸、静岡、広島、北九州各1店、計22店の設立を完了した。また、ディーゼル店9店でもパブリカを取り扱うこととした。1961年6月、これら各店で一斉に発売した。パブリカ発売1年後の1962年6月までに、主な地区にパブリカ販売店の設置を終え、その店数は52店に達した。

しかし、パブリカの売れ行きは期待に反して伸び悩み、発売当初に定めた月販3,000台、近い将来に月販1万台という目標には届かなかった。発売の翌年に入っても売れ行きは伸びず、4月と5月にかろうじて2,000台を超えたのみで、同年の月平均販売台数は1,600台程度で低迷した。その原因は、理想的な大衆車販売網づくりを追求したが、理想を追うあまり市場の現実とのギャップに気づかなかったことにあった。

その後、パブリカ店設立・運営の当初方針を変更していく。1962年2月、東京に直営のパブリカ朝日株式会社(現・トヨタ東京カローラ株式会社)を設立した。小規模販売店方式の変更を意味する直営大規模販売店の設置であった。また、同年3月には、COD(キャッシュ・オン・デリバリー)方式の一部緩和を行い、その後もCODを漸次縮小し、全面的に卸手形方式に切り替えていった。

結果的に言えば、同一府県内複数販売店制(オープンテリトリー制)は時期尚早であった。訪問販売を中心とする当時の日本では、オープンテリトリー制で販売に力を入れると、市場での競合を激化させ販売店経営に悪影響を及ぼしたのである。

その後、初代カローラを販売していく準備を進めた。発売時までに大衆車販売網を強化するため、1966年4月から10月までの約半年の間にパブリカ店を18社増設し、パブリカ店は計86店となった。カローラは同年11月5日、全国のパブリカ店86社、ディーゼル店2社から一斉に発売された。各販売店で行われた発表会の来場者は実に130万人を数え、マイカー時代の本格的な幕開けを感じさせた。

こうして、パブリカ店で販売されたカローラは、大衆車市場におけるベストセラー・カーとなったのである。パブリカ店は1969年、カローラ店に名称変更した。

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