第2節 創立50周年と円高への対応

第1項 急激な円高の進行

「プラザ合意」の成立と円高の進展

1986(昭和61)年1月、トヨタの国内累計生産台数は日本メーカーでは初の5,000万台に達した。しかし、祝賀ムードに浸ることを許さないほど日本経済は激動期を迎えていた。1985年9月にニューヨークで開かれた先進5カ国蔵相・中央銀行総裁会議(G5)で、ドル高是正のための為替協調介入を決めた「プラザ合意」が成立し、急激な円高ドル安が進行していたのであった。

それまで1ドル240円前後で推移していた円相場は、1985年末には200円を切る水準となり、翌1986年5月には160円に高騰した。この急激な円高で日本車は米国向けを中心に数次にわたる値上げを余儀なくされ、競争力は総じて低下していったが、トヨタも例外ではなく、1986年の全世界向け輸出台数は前年を5.3%下回る187万台に減少し、200万台を目前に急ブレーキがかかった。

業績も円高の直撃を受けた。1986年6月期には国内販売の健闘により売上高こそ前期比4.0%の増収となったものの、円高による減益要因は2,900億円にのぼり、営業利益は34.9%減の3,293億円、経常利益は24.6%減の4,883億円と、前期の過去最高益から一転して大幅な減益となった。1982年の工販合併による新生トヨタの発足後、初の減益決算であった。とくに円高が始まった下半期の営業利益は前年同期に比べて6割強も落ち込み、為替変動の業績への影響はかつてないレベルに高まっていた。

円・ドルレートは、1987年1月には150円を割り込み、1987年6月期も減益決算となった。同年の年間賞与に関する労使交渉は難航し、6.1カ月分の組合要求に対して、6.0カ月で妥結することになった。満額回答割れは1967年以来20年ぶりのことで、厳しい事業環境を乗り越えるため労使が危機感を共有しながら歩み寄った結果であった。

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