第4節 世界各地で充実する海外事業

第5項 中国

中国では、1983(昭和58)年に北京ジープ社、1984年に上海フォルクスワーゲン社および広州プジョー社が設立され、外資との合弁による自動車産業育成策が始動していた。しかし、外国企業にとっては依然として、スポット的な完成車輸出もビジネス上は重要であった。トヨタは、1964年にクラウンを輸出して以降、中国に輸出した車両のアフターサービスを充実させるため、豊田通商などの協力を得ながら、1980年にトヨタ認定サービスステーション(TASS)のプロジェクトを立ち上げた。

TASSとは、現地資本のサービス工場に対してトヨタが技術指導して認定する制度で、1980年7月に北京に第1号のTASSが発足し、1982年には広州にも展開した。また、TASSに従事する整備士の技能向上を目的に、1985年には北京、広州のTASS内にトレーニングセンターを設置した。TASSは、トヨタが中国で乗用車の本格生産を始める2002(平成14)年までに中国全土で70カ所余りがネットワーク化され、その後の認定ディーラーのスムーズな展開につながった。またこの間、1987年には自動車教習所が北京に開設されたが、トヨタもこれに協力した。

現地生産については、1984年3月にグループ企業のダイハツ工業が天津汽車工業との間で、製造技術提携契約を結んだ。天津汽車は同年10月からハイゼット、1987年からは乗用車シャレードの生産を始めた。

1988年11月には金杯汽車との間で、トヨタは豊田通商とともに商用車の技術援助契約を締結した。ハイエースの技術援助を行い、金杯汽車は傘下の瀋陽金杯客車製造で金杯ブランドで生産するという内容である。このプロジェクトにはトヨタ車体も参画した。

瀋陽金杯客車製造では、1991年11月に1号車がラインオフした。当初、技術援助の範囲はボデーのプレスと溶接に限られていたが、1992年には塗装や組立工程にまで拡大した契約となった。金杯ブランドのハイエースは、マイクロバスとして人気を集め、金杯汽車は、このカテゴリーで中国最大のメーカーへと成長していった。

一方で、トヨタブランドの現地生産の事業環境は徐々に険しくなっていた。中国では1980年代半ばまでに地方で小規模な自動車会社が相次いで設立され、1970年代後半と比較してほぼ倍増した。国内企業の育成や国際的競争力を向上させるため、中国政府は1986年、中国と貿易してモノを販売するには技術を開示、提供する必要があるとする技貿結合政策を発表した。さらに自動車産業が分散小規模化していることから、乗用車生産については、中国の国家計画委員会が1987年に発表した「汽車工業2000年発展計画大綱」に基づき、1989年に自動車メーカーの再編・集約を図るねらいで、「3大3小政策」を策定した。「3大」はフルラインメーカーを3社に、「3小」は中堅車両メーカーを同じく3社に集約するという意味である。1992年には小型車メーカー2社の「2微」が加わった。

1990年代の初頭までには欧米メーカーを中心に中国大手との提携関係がほぼ固まった。さらに、1994年には「3大3小2微政策」を踏襲し、「自動車工業産業政策」が国務院から公表されたが、同政策は、自動車産業を基幹産業として育成することを目指すものであり、国産化推進、自動車部品産業育成を政策の柱としていた。

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