第4節 石油危機への対応

第4項 低燃費技術の開発

二度にわたる石油危機は、世界の自動車産業に大きな変化をもたらした。自動車メーカーの対応状況により、その後の国際競争力に際立った差が出てきた。

米国では、自動車の燃費向上を目指す法律が次々と制定された。1975(昭和50)年12月、「エネルギー政策・保存法(燃費基準法)」が成立し、乗用車とトラックに分けてメーカー平均燃費(CAFE1)規制値が設定された。規制値は年々強化され、乗用車の場合、1985年以後は27.5mpg2(マイル/ガロン)を達成することが義務づけられた。年度ごとの規制値を達成できないメーカーは、規制値を0.1mpg超えるごとに台当たり5ドルの罰金を支払うという法律が制定された。

1978年には「ガソリン浪費税法」が制定され、モデルごとに最低限達成すべき燃費値が設定される。規制値を超えるモデルの車両には、その車両の燃費に応じた税金を納めることが義務づけられた。

1979年の第2次石油危機の際には、大統領の呼びかけに応じたエネルギー節約のステッカーが車に貼られ、ガソリンスタンドには車が長い列をつくった。ガソリン消費量の多い大型車を主力商品とする米国の自動車メーカーは、いずれも厳しい局面に立たされることになった。

米国の乗用車市場は1978年の1,095万台から年ごとに下降線をたどり、1982年にはついに800万台を割った。ビッグスリーはその打開策として小型車分野に進出するが、価格・品質ともに日本車に太刀打ちできず伸び悩んだ。1980年にはビッグスリーはいずれも赤字に転落した。こうしたなか、日本車は高品質、低燃費の車という市場の評価を勝ちとった。

日本でも、省エネルギー促進のため、運輸省は1976年1月から、乗用車の車両型式認定における10モード排出ガス試験から得られる10モード燃費を公表することになった。3さらに1979年には、「エネルギー使用の合理化に関する法律」、いわゆる「省エネ法」が制定され、4乗用車の燃費基準が設定された。この燃費基準は、1985年度に各メーカーが達成すべき燃費を重量クラス5ごとに定めたCAFE(メーカー平均燃費)で算出された。

こうして1970年代後半には省資源、省エネルギーへの要請が国内外で高まり、この分野での本格的な技術開発競争が予想された。トヨタは1978年に、効率向上、軽量化などの低燃費技術を中心にした、1980年代にかけての研究開発計画を立案した。この計画は「社会の要請と技術の動向を先取りした総合技術戦略を策定し、研究開発の推進を図る」方針のもとに立案されたものであり、「F-3プログラム」6と総称され、以下のとおり推進された。

  1. 1.技術部門全体が連携して中・長期予測に基づいて開発目標値を設定する。
  2. 2.排出ガス対策をプロジェクト活動で推進した経験を生かして、車両全域の技術開発についてプロジェクト制で推進する。
  3. 3.プログラムを具体化する道具として、あるいは成果を示す場として、F-3プログラム研究実験車・研究エンジンを設定して推進する。
  4. 4.日本電装(現・デンソー)、アイシン精機などにも協力を得て、トヨタグループにまたがるプログラムとして推進する。

そして、このプログラムで取り上げた技術分野は、以下のとおり広範囲にわたった。

  1. 1.樹脂、高張力鋼版などの新材料。
  2. 2.エンジン制御などのエレクトロニクス技術。
  3. 3.駆動系の新機構、タイヤなどのころがり抵抗低減技術、補機類の小型軽量化などの車両特性。

また、1980年初めには長期展望に立って、F-3プログラムの見直しを行い、次の技術開発項目を新たに追加した。

  1. 1.無段変速機、セラミックス、複合材料などの新材料。
  2. 2.シャシー・駆動の制御、ディスプレイなどに範囲を拡大したエレクトロニクス技術など。

F-3プログラムで開発された新技術は、その後、次々と量産車に採用され、また、このプログラムの推進を通して、トヨタにおける研究開発のプロジェクト制が定着した。

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