第6節 戦後の事業整理と労働争議

第3項 民需転換と戦後改革への対応

1945(昭和20)年9月25日、GHQ(連合国軍総司令部)は「製造工業操業に関する覚書」を発令した。これにより、乗用車の製造は禁じられたものの、トラックの製造が認められ、自動車メーカーとして操業できることになった。1

トヨタ自工では、軍需工場に指定された挙母工場、刈谷南工場、刈谷北工場、愛知工場(1947年2月に中川工場に改称)の民需転換許可申請を1945年10月10日に占領軍へ提出し、同年12月8日に米陸軍第6軍軍政局から民需転換の許可を受けた。さらに、自動車用電装品工場であった刈谷南工場については、漁船用エンジン電装品、小型モーター、ラジオのほか、電気ストーブや電気コンロ、電気アイロンなどの電熱器、紡織部の綿糸・綿布の製造が追加許可された。

これら4工場のうち、愛知工場は1946年1月に賠償保全工場に指定され、航空機製造用工作機械を良好な状態に保全する義務を負った。同年5月には愛知工場の指定は解除されたが、代わって挙母工場と刈谷北・南の各工場が賠償保全工場に指定された。その後、トヨタ自工の陳情により、挙母工場は1946年8月に、刈谷南工場は1948年3月に、刈谷北工場は同年10月に指定解除となった。賠償保全工場に指定されていた期間は、工場を自由に利用することができなかったため、会社再建計画の進行に影響を及ぼした。

一方、GHQは経済民主化を実行に移すため、1945年11月6日に「持株会社の解体に関する覚書」を発令し、財閥解体に着手した。その前提として、同月24日に財閥本社とその傘下企業の通常業務執行以外の資産移動を広範に制限する「制限会社令」2が公布された。

トヨタ自工は、持株会社の指定を避けるため、同年11月から12月にかけて、関係会社の役員兼務を少なくしたり、社名を変更したりと、事前の予防策を講じた。その結果、トヨタ自工自体の解体は免れたものの、1946年4月27日に三井財閥系会社(東洋棉花)の株式保有率が高かったところから、制限会社に指定された。

また、1947年9月26日には豊田関係会社の株式を保有していた豊田産業が持株会社に指定され、解体されることになった。同社の解散・清算処理に先立ち、1948年7月1日に商事部門を分離独立し、日新通商株式会社を設立した。なお、豊田産業が清算を終了したのは、1951年6月20日である。

財閥解体と並行して独占禁止政策が進められ、1947年4月には「独占禁止法」が公布された。同年12月18日に制定された「過度経済力集中排除法」は、既存の独占を解体することを目的としたもので、トヨタ自工は翌1948年2月8日に持株会社整理委員会から、同法の対象会社に指定された。これに伴い、会社分割や工場・株式処分などの再編成計画を同委員会に提出することになったが、その後、GHQの日本経済に対する占領政策が非軍事化・民主化から、再建・安定化・自立化に変更されたことを受け、1949年1月21日には指定が解除された。3

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