第3節 豊田喜一郎の自動織機開発

第1項 豊田喜一郎の豊田紡織入社

大学卒業まで

豊田喜一郎は、1894(明治27)年6月11日、豊田佐吉の長男として、静岡県敷知郡吉津村山口(現・静岡県湖西市)で誕生した。

この頃、佐吉は動力織機の研究に没頭し、豊橋と名古屋を行き来していたので、喜一郎は吉津村の祖父母の元で日々を過ごした。3歳のころになって、名古屋の佐吉の元に引き取られた。

喜一郎は、父が経営した豊田商店(豊田商会)の武平町工場や島崎町工場、あるいは豊田自動織布工場(栄生町)の敷地内に設けられた居宅に住み、モノづくりを身近に見ながら成長した。後年、喜一郎はその経験をトヨタ自工の技術者に対する講話のなかで、次のように語っている。

私と岡部氏とで米国へ行き、クロンプトン社とノースロップ社へ行き、織機の組立運転をすることとなったが、私にはそんな経験はなかったが幼時より機械に常に接近していたので訳なく出来てしまった。エンジニアーは機械を身内と考へ何時も機械にタッチしていることが最も肝要である。1

喜一郎の幼時における機械への接近こそ、実際に現物で事実を理解する「現地現物主義」の原点であるといっても過言ではない。

1908年、喜一郎は愛知県立師範学校付属高等小学校を卒業し、私立明倫中学校に入学した。同学年には、のちに商工省工務局工政課長として自動車製造事業法の制定に取り組む坂薫(ばんかおる)2がいた。

1914(大正3)年には仙台の第二高等学校甲組工科へ進み、工科系の勉学にいそしんだ。ここでは、のちに自動車事業で協力してもらうことになる多くの友人ができた。3

そして、1917年に第二高等学校を卒業し、高校時代の友人である赤平武雄、伊藤省吾、小林秀雄、田辺吉造、抜山四郎、抜山大三たちとともに、東京帝国大学へ進んだ。大学では、隈部一雄、三島徳七らと知り合い、自動車事業に協力してもらうことになる。それらの学友たちを通して、山田良之助、成瀬政男などへと、さらに友人の輪が広がり、のちに本多光太郎博士のような碩学の助言も得られた。

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