第2節 豊田佐吉の事業
第3項 株式会社豊田紡織廠などの設立
株式会社豊田紡織廠の設立
第1次世界大戦の勃発により、中国市場では英国綿製品の輸入がストップしたため、日本の紡織会社の中国進出が活発化した。1919(大正8)年8月1日には中国の輸入関税率が綿糸布価額の3.5%程度から5%へと引き上げられ、これをきっかけに、中国での現地生産に拍車がかかった。すなわち、1914~1925年に中国では87の紡織工場が設置されたが、そのうち日本系は17社33工場にのぼったのである。1
このような状況のなかで、豊田佐吉は、1920年に中国の上海で紡織工場の建設に着手した。この工場は1921年5月に完成し、同年11月には豊田紡織廠(中国名、豊田紗廠)が設立された。同社の概要は、次のとおりである。
所在地
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上海極司非而路2200号
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資本金
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1,000万両(500万両払込済み)
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経営陣
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社長:豊田佐吉、取締役:豊田利三郎、児玉一造、西川秋次、石黒昌明、監査役:藤野つゆ、豊田喜一郎、村野時哉、鈴木利蔵
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工場設備
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紡機3万5,712錘(プラット社製)、撚糸機1万5,312錘(ホワイチン社製)(織機は1924年8月に406台が稼働開始)
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なお、豊田喜一郎は1920年7月に大学を卒業するが、卒業設計として「上海紡績工場原動所設計書」を提出しており、在学中から父佐吉の事業に技術面で関与していたことがうかがわれる。
豊田紡織廠は、喜一郎が自動車事業をスタートさせた際、資金面から支援するとともに、中国での事業展開に中枢的な役割を果たし、1940年の北支自動車工業の設立、1942年の華中豊田自動車工業の設立などに協力した。1944年には豊田紡織の名称を引き継ぎ、社名を豊田紡織廠から豊田紡織に改めた。敗戦後、中国側に接収され、会社は消滅した。