第3節 豊田喜一郎の自動織機開発

第1項 豊田喜一郎の豊田紡織入社

工場で紡績技術を学ぶ

1920(大正9)年7月、豊田喜一郎は大学を卒業し、名古屋へ戻って豊田紡織の仕事を手伝うつもりでいた。1

喜一郎は、父佐吉の事業を引き継ぐ意志があったが、当時の豊田紡織には、1915年に妹愛子と結婚した10歳年上の義弟利三郎がいた。利三郎は常務取締役として、工場建設で上海に滞在する佐吉の留守を取り仕切っており、学校を出たての喜一郎が手を出せる状況ではなかった。

そこで、喜一郎は企業経営に関係する法律や社会制度を学ぶために大学へ戻り、1920年9月から法学部に入学した。2しかし、喜一郎の法学部での生活は、思いのほか早く、1921年3月いっぱいで切り上げられた。佐吉と西川秋次技師長が上海の紡績工場建設にかかりきりで、技術担当の責任者が名古屋に不在となり、とりわけ紡績技術について、豊田紡織内で育った技術者がいなかったところから、喜一郎を戻すことになったと思われる。

喜一郎の日記には、1921年4月8日(金)の欄に、「昼ヨリ菊井ヘ行ク。荷物ヲ中村ノ工場ニハコビ、今夜ヨリ中村工場ニ寝泊リスル事ニシタリ」と記されている。こうして、喜一郎は本格的に工場で執務することになった。

日記に登場する「菊井」は、菊井紡織のことである。当時、菊井紡織では、米国ホワイチン社製の紡績機械を増設しており、同社の技術者が据付調整を行っていた。喜一郎は、紡績技術を学ぶために同社へ赴いたと考えられる。

喜一郎は、愛知郡中村に所在する豊田紡織の工場を「中村工場」と呼んでいた。そこに寝泊りして、糸をつむぐ紡績や、布を織る織布の仕事を学びながら、自動織機の研究に取り組んだのである。

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