第2節 自動車試作
第5項 販売組織の確立
トヨタ・マークの制定と販売網の整備
豊田自動織機製作所自動車部が開発する自動車に用いるため、試作車製作に着手する以前の1934(昭和9)年2月、豊田系関係会社従業員を対象にマークの募集が行われた。4月には応募作品800余件のなかから候補案21件が選ばれたが、最終的に採用されるに至らなかった。
1936年7月5日付の自動車部広報紙『トヨダニュース』第3号には、改めて「トヨダのマーク懸賞募集規程」が掲載された。1等賞金は100円で、締切日は8月15日、有力新聞紙上で募集するという内容であった。そして、10月10日付『トヨタニュース』第8号では、2万7,000件余りの応募から選ばれた「トヨタ・マーク」当選者が発表され、「今回斯界の権威者のご忠告に依りましてトヨダの濁点を取去って『トヨタ』と改称する事になりました」と告知している。さらに記事中でも、「岐阜トヨタ発表会」「第二回トヨタ販売店会議」「トヨタ夜間巡回サービス」と、すべて「トヨタ」の表記となった。
一方、1936年秋にフォード車の販売権を返上した五番館自動車部(札幌トヨタの前身)が、1937年6月にトヨタ車販売に転換するなど、販売網も徐々に拡充されていった。トヨタ自動車工業が設立される同年8月時点でみると、国内に18店、朝鮮と台湾に各1店、合計20販売店の体制となった。国内では、高知県の四国トヨタ販売が徳島営業所と松山営業所を設置し、栃木県の関東トヨタ販売が茨城営業所と埼玉営業所を設置していたため、営業拠点が設けられた道府県は22を数え、全国のほぼ半分に達した。
販売店のなかには、実質的に米国車とトヨタ車を併売しているところも多く、GM系販売店である高知県の四国モータースは四国トヨタ販売、鹿児島県の南国モータースは南豊自動車、新潟県の新潟商会は新潟トヨタ自動車商会、栃木県の関東モータースは関東トヨタ販売、兵庫県のカネキ商店は神戸トヨタ販売、フォード系販売店である熊本県のヨナワ商会は熊本トヨタ自動車販売を設立していた。
こうして、トヨタ車の国内販売会社数は、1936年末の7社、1937年末の19社から、トヨタ自工設立後1年を経た1938年7月には22社(26道府県)へと増加し、朝鮮、台湾の外地2社を含めると24社になった。さらに、1938年末に30社、1939年末には37社と逐年増加するとともに、営業拠点のある道府県は44(うち7県は営業所の設置。大分、宮崎、沖縄の各県が未設置)に及び、ほぼ全国を網羅する販売網が整備された。外地については、1941年までに樺太トヨタ自動車販売株式会社、朝鮮自動車販売株式会社、京城トヨタ自動車販売株式会社、西鮮トヨタ自動車販売株式会社、台湾国産自動車株式会社の5社が設けられていた。
ところで、1939年4月にトヨタ自工が資本金を1,200万円から3,000万円へと第1回の増資を実施した際、販売店25社で合計5,000株の出資を分担してもらった。販売店がメーカーの株式を保有するという優越的な立場は、1942年の自動車販売機構再編成まで続いた。
表1-3は、トヨタ自工の広報誌『流線型』(1940年12月1日~41年10月1日)に掲載された広告に登場する販売店をまとめたものである。社名は必ずしも統一されたものではなく、外車販売店時代の社名そのままのところもあり、当時の販売事情をうかがうことができる。なお、表中の株数は、上述のトヨタ自工が増資した際の出資株数である。
表1-3 『流線型』に掲載の販売会社(1940年12月~41年10月)
社名
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住所
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株数
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---|---|---|
樺太トヨタ自動車販売株式会社
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豊原市大通北二丁目
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株式会社五番館自動車部
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札幌市北五條東二丁目
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200
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奥羽トヨタ自動車販売株式会社
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青森市濱町五丁目
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100
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秋田トヨタ自動車販売商会
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秋田市田中町22-1
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100
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株式会社吉井屋自動車販売部
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山形市宮町2002
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盛岡トヨタ自動車販売株式会社
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盛岡市大通り二丁目
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50
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ミヤギトヨタ自動車販売株式会社
|
仙台市東五番町1
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50
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福島トヨタ自動車販売株式会社
|
福島市西町2
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関東モータース栃木商会
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宇都宮市西原町2675
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300
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関東モータース茨城商会
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水戸市明星町30
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関東モータース群馬商会
|
前橋市田中町81
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関東モータース埼玉商会
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埼玉県大宮市新国道通
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千葉トヨタ販売株式会社
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千葉市末廣町1-117
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東京トヨタ自動車販売株式会社
|
東京市芝区田村町5-9
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550
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神奈川トヨタ販売株式会社
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横浜市神奈川区高島通3-37-2
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合資会社新潟商会
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新潟市流作場2439
|
100
|
富山トヨタ自動車販売株式会社
|
富山市木町8
|
100
|
金澤トヨタ自動車販売株式会社
|
金澤市古道3
|
100
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福井トヨタ自動車販売株式会社
|
福井市毛矢町13
|
100
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長野トヨタ自動車販売商会
|
長野市南石堂町228
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山梨トヨタ自動車販売株式会社
|
甲府市酒折駅前
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|
静岡トヨタ販売株式会社
|
静岡市長沼567
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150
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名古屋トヨタ販売株式会社
|
名古屋市昭和区東郊通9-15
|
550
|
岐阜トヨタ自動車販売株式会社
|
岐阜市金園町10
|
100
|
三重トヨタ販売株式会社
|
松坂市日野町647
|
150
|
奈良トヨタ自動車販売株式会社
|
奈良市杉ヶ町30
|
50
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京都トヨタ自動車販売株式会社
|
京都市東山区東大路松原下ル
|
150
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大阪トヨタ自動車販売株式会社
|
大阪市此花区下福島1-4
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550
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株式会社カネキ商店
|
神戸市林田区北町2-5
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300
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岡山トヨタ販売株式会社
|
岡山市大供134
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広島トヨタ自動車販売株式会社
|
広島市千田町2
|
300
|
山陰モーター商会
|
松江市朝日町489
|
|
山口トヨタ自動車販売株式会社
|
山口県吉敷郡小郡町下郷
|
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合資会社香川トヨタ自動車商会
|
高松市壽町2-15
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高知トヨタ自動車合資会社
|
高知市駅前通
|
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松山トヨタ販売株式会社
|
松山市西堀端町4
(四国トヨタ販売) |
250
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株式会社大福自動車商会
|
福岡市渡邊通5
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肥前トヨタ自動車販売株式会社
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佐世保市常磐町99
|
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合名会社ヨナワ商会
|
熊本市春日町793
(熊本トヨタ自動車販売) |
150
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南国モータース株式会社
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鹿児島市西千石町114
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150
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朝鮮自動車販売株式会社
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釜山府栄町1-41
|
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京城トヨタ自動車販売株式会社
|
京城府永楽町2-73
|
200
|
西鮮トヨタ自動車販売株式会社
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平壌府新里209
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台湾国産自動車株式会社
|
台北市中崙233
|
200
|
- (注)
- 「株数」は、1939年4月のトヨタ自工の増資に際して出資した株数である。なお、『流線型』に掲載されていないのは、次の8県である。
滋賀県:京都トヨタ自動車販売株式会社大津支店(大津市浜通り)
和歌山県:和歌山トヨタ自動車販売株式会社(和歌山市北新町)
鳥取県:山陰モーター商会 鳥取(鳥取市東品治町)
徳島県:未設置
佐賀県:肥前トヨタ自動車販売株式会社佐賀営業所(佐賀市大財町)
大分県、宮崎県、沖縄県:未設置
その後、1941年12月に太平洋戦争が始まると、自動車販売業界も戦時統制経済のなかに組み込まれていった。すでに、1940年8月から自動車ならびに部品の配給統制が始まっていたが、1941年12月24日には自動車統制会が発足し、自動車販売機構の再編成が進められた。そして、1942年7月に日本自動車配給株式会社(日配)が設立され、同年11月にはその下部組織として各道府県別自動車配給株式会社(地配)が発足した。トヨタ車の販売網を構成する販売会社は、各地域の地配に統合されることになり、これ以降順次解散していった。