第5節 戦時下の研究と生産

第10項 統制経済下の自動車業界

自動車販売業の統制

1938(昭和13)年度から始まった「物資動員計画」のもとで、トラックボデー架装用資材が配給制となった。各販売店はトラック購入者に指定ボデー工場を斡旋し、全国のトヨタ販売店で構成する「トヨタ自動車材料配給協会」から、トラックボデー架装用資材の割当配給を受けた。その後、同配給協会は1941年5月に解消され、トヨタ自工がボデー架装用資材を直接割り当てるようになった。

トラック販売価格については既述のように「価格等統制令」により、1939年9月18日をもって停止価格とされた。しかし、これは応急処置であって、商工省は車両価格形成専門委員会を設置し、1941年3月24日には商工省告示第241号で自動車の公定価格を公示した。

1940年代に入ると、自動車販売の大部分は軍需で占められ、実質的に需要が一元化された状態にあった。したがって、販売面での統制は、需要者側の意向に沿って進められた。

1942年7月10日、自動車統制会のもとに全国的な統制会社として日本自動車配給株式会社(日配)が設立された。その下部機構として、各府県には地方自動車配給株式会社(地配)が設立され、同年11月には全47社がそろった。

日配、地配に対する資本出資は、「自動車製造事業法」の許可会社であるトヨタ自工、日産自動車、ヂーゼル自動車工業の3社を中心に行われた。具体的には、日配では資本金1,000万円のうち、3社が各200万円(合計60%)を負担した。また、各府県地配の出資比率については、トヨタ系と日産系は同比率、ヂーゼル系と外車用サービス部品買受機構は過去の販売実績を加味して決定された。東京配給会社の場合をみると、トヨタ系と日産系が各33%、ヂーゼル系が10%、外車系が24%を出資しており、全国で外車系の比率が最も高かった。トヨタ系販売店も、他系列の販売店と統合され、各府県地配となった。

日配は、各自動車メーカーの製品を一手に引き受け、軍需を最優先に納入した。そのあとに残った自動車を民需に配給したが、すでに民間のトラックは多くが軍に徴発され、運輸業者による営業車の運行も当局から厳重に監督される状況であった。さらに、修理用部品や燃料の不足から、自動車の運行自体が困難になっており、民需はごくわずかにすぎなかった。1

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