経営危機の発生

1949(昭和24)年10月の自由販売への移行により、自動車市場は買い手市場に変わり、統制下の売り手市場に慣れた自動車販売業界は混乱状態となった。その結果、月賦手形による分割払いが増加し、月賦の条件も次第に悪くなるなど、販売条件は急速に悪化していった。

トヨタの販売店では、自由販売になると同時に月賦販売を開始した。普通トラックの場合、1949年11、12月の月賦販売の比率は、それぞれ85%、87%であった。小型トラックの月賦販売比率は、同年11月の47%から12月には61%へと急上昇し、しかも平均月賦期間が長期化する傾向を示していた。

これらのことは、不渡り手形の大量発生につながった。そして、その穴埋めをトヨタ自工が負担することになったため、深刻な経営危機を招いた。1

自動車販売代金の回収は、割当配給が適用されていた1949年9月末時点でも、3億5,000万円の出荷額に対して2億円程度と、6割を下回っていた。このような代金回収の停滞と、統制価格体系のひずみに起因する原価の増大とにより、トヨタ自工の経営は急速に悪化したのである。

労働組合も協力した懸命な合理化努力にもかかわらず、鉄鋼値上げ分を吸収できず、1949年11月には3,465万円の営業損失となった。損失の拡大はその後も続き、翌12月には1億9,876万円へと急増した。そして、同年末には12月度賃金の一部支払い2、協力工場への仕入代金支払い、車両販売手形の買い戻し、借入金返済などのため、不足資金2億円を借り入れなければならない事態に陥った。

1949年12月23日、トヨタ自工とトヨタ自工労働組合(全日本自動車産業労働組合トヨタコロモ分会)は、この危機を乗り越えるため、互いに協力することを約した覚書を締結した。その骨子は、原価低減を目的とする合理化の具体案を労使協力して推進すること、会社側は危機克服の手段として人員整理を絶対に行わないこと、その代償として労働組合側は賃金ベースの1割引き下げを受け入れること、などであった。

既述のとおり、豊田喜一郎社長は、1930年の昭和恐慌の際、豊田自動織機製作所で心ならずも雇用問題を経験し、そのような事態を二度と起こさないことを信条としていた。自動車事業への進出は、事業の多角化による雇用問題の再発防止策でもあった。したがって、今回の経営危機に際しても、人員整理は絶対に避ける覚悟を固めており、覚書にその旨を掲げることは当然であったといえる。

この覚書締結を踏まえて、日本銀行の斡旋により24行からなる協調融資団が成立し、トヨタ自工の再建計画策定を条件に、年末決済資金として1億8,820万円の融資が実現した。

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