第6節 戦後の事業整理と労働争議
第6項 労働争議と喜一郎社長の辞任
豊田喜一郎社長の辞任
1950(昭和25)年5月27日の第21回団体交渉では、労働組合側から議題として、「社長・副社長・西村常務辞任」に関する件が提案された。労使間で会社再建案を討議中の時期に、こうした議題が取り上げられたのは、2日前の5月25日、豊田喜一郎社長がトヨタ自動車販売店協会の役員集会で、労働争議の責任を負って辞任することを表明したからであった。会社側は、喜一郎社長が辞任する意向であること、後任の社長には豊田自動織機製作所の石田退三社長が就任することを説明した。
一方、2カ月近くに及ぶ労働争議で生産は停滞し、経営の悪化はいっそう深刻の度を加えた。会社再建案の実行は一刻の猶予も許されない状況となり、会社側は6月4日の第25回団体交渉で、「早期解決に関する件」を労働組合側に文書で申し入れるなど、人員整理による会社再建案の受け入れを求めた。団体交渉と並行して進められた希望退職者の募集は、1,600名の削減目標に対して、6月6日には約1,700名にのぼっていた。
6月8日の第29回団体交渉では、徹夜の討議を行った結果、労働組合は9日早朝に会社再建案の受け入れを決めた。翌10日に労使間で締結・調印された覚書の概要は、次のとおりである。
1.人員整理
労働組合は、希望退職者の退職を認める。
会社は、労働組合の意見を参考にして、退職者のなかから160名程度の復職を認める。
会社が将来人員を採用する場合には、今回の退職者を優先的に取り扱う。
会社および労働組合は、退職者の就職斡旋に努力する。
2.賃金の引き下げ
労働組合は、残留者の賃下げ(6月16日から1割引き下げ)を認める。
3.人事の刷新
会社は思い切った職制の刷新を行う。この場合、労働組合の意見を参考にする。
労働組合との交渉妥結に伴い、会社再建案に盛り込まれた東京の芝浦工場と蒲田工場の閉鎖も確定し、両工場の解雇者378名を含む2,146名が退職することになった。残留者は5,994名(販売部門の350名を含む)であった。
こうして、1950年4月11日に始まった労働争議は、2カ月を経た6月10日に終結した。それに先立って、喜一郎社長、隈部一雄副社長、西村小八郎常務の3人は、6月5日に労働争議の責めを負って辞任した。さらに、7月18日に開催された臨時株主総会で全役員がいったん辞任し、新役員を選任したうえで、豊田自動織機製作所社長の石田退三が兼任のまま新社長に就任した。また、専務には新たに帝国銀行(現・三井住友銀行)大阪事務所長の中川不器男が選任された。