第1節 日本の自動車市場

第4項 中京デトロイト化構想――乗用車「アツタ号」の開発

1930(昭和5)年5月、商工省の諮問機関である国産振興委員会が自動車工業確立方策を答申した。ちょうど豊田喜一郎が将来に向けて豊田事業の多角化を考え、紡績機械や自動車製造への進出を検討していたころである。

このように自動車国産化の気運が盛り上がるなか、名古屋市では大岩勇夫市長が中京自動車工業化構想を提唱した。中京デトロイト化構想とも呼ばれるこの構想は、中京地区に発達している機械工業を活用し、自動車工業を確立しようとするものであった。これまでの繊維業や陶磁器業にかわる工業の育成を目指したといわれ、繊維業の将来を考えて自動車工業への進出を検討した喜一郎の発想と共通していた。

中京デトロイト化構想は、大岩市長の斡旋により名古屋市内の機械関係各社が参加し、愛知時計電機の青木鎌太郎社長がまとめ役となって推進された。1930年夏には乗用車の試作に着手し、米国の乗用車「ナッシュ」をモデルに各社が開発を分担することになった。大隈鉄工所は機関と伝達装置、日本車両製造は車台枠(フレーム)と車体、岡本自転車自動車製作所は車輪とブレーキ、豊田式織機は鋳物部品をそれぞれ担当し、1932年3月に試作車2台が完成した。

この乗用車は「アツタ号」と命名され、水冷8気筒、3.94L、85馬力の大型エンジンが搭載された。大型乗用車とした理由は、「車の品級に就いては米国の多量生産的脅威から幾分でも遠ざからしめん為めに高級車に近いものを標的とした」1からである。

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