第2節 豊田佐吉の事業

第1項 豊田式織機株式会社における挫折

豊田式織機株式会社の常務取締役を辞任

豊田式織機株式会社の常務取締役を務めた3年余りの間、豊田佐吉は技術開発に専念することができた。そのため、1907(明治40)~1910年の4年間に出願した特許件数は16件にのぼり、佐吉にとって発明件数が最も多い時期となった。それ以前の1897~1906年の10年間は合計13件であり、1年平均の件数で比較すると、1.3件から4件へと3倍に増加している。

佐吉は各種織機を試験したうえで、改良点を摘出していた1のであるが、豊田式織機株式会社には試験を行うための織布試験工場がなかったため苦労することになった。豊田商会時代の織布試験工場は、豊田式織機株式会社の設立と同時に廃止され、1907年2月に鉄製小幅織機の試験工場として名古屋織布株式会社が設立された。しかし、同社の工場は満足に織機の試験ができる状況ではなかった。2

そこで、佐吉は豊田式織機株式会社の重役の反対を押し切り、名古屋市西区西藪下町(現・西区菊井1丁目)に個人的な試験工場を設置した。同工場はその後、鉄製広幅普通織機H式(1908年11月完成)30台を据え付け、1909年2月に豊田織布菊井工場3として営業的に発足した。

このように佐吉と豊田式織機株式会社の経営陣との間には、研究開発に対する考え方に溝があった。その隔たりはますます拡大し、ついに1910年4月に破局を迎えた。『豊田佐吉伝』には、次のようなやりとりが記されている。

結局谷口社長から「会社の成績が挙がらないのは発明や試験のため、社員の気がそちらへばかり奪われる結果だと思ふ。ついては豊田君気の毒だが君は辞職して貰ひ度いのだ」との事に翁は腹に据へ兼ねたのであらう、席を蹴って自宅へ帰ると、直ちに辞職の手続きをとった。4

その後、豊田式織機株式会社は、1913(大正2)年8月に名古屋織布株式会社を合併し、その工場を名古屋織布工場と称した。同工場は試験工場として利用され、1914年6月に鉄製広幅普通織機N式を開発してからは、その公開工場となっていた。5なお、豊田織布菊井工場については、紡績工程を併設していなかったところから、1942(昭和17)年の紡績工場の再編(豊田系・東棉系紡績会社5社合併)には加わらず、単独で存続した。6

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