第9節 量産量販に向けての準備

第3項 中南米諸国への進出

ブラジルトヨタ、トヨタ初の現地生産

ブラジルへの輸出は、1952(昭和27)年1月に同国政府の許可が下り、大型トラックFX型100台が初めてCKD輸出された。組立生産には、ブラジル・フォード社から工場の一部(20m×50m)を借用し、同年6月から生産を開始した。さらに、1954年2月には大型トラック120台をCKD輸出し、同じく組立生産を行った。

ところが、FXトラックの販売後、その補給部品が供給されず、次第にトヨタ車の評判は悪くなっていった。1ブラジル政府が外貨不足対策として、自国で生産できる自動車部品の輸入を禁止し、国産品で賄う政策をとっていたからである。ブラジルの国産部品をトヨタ車の補給部品に用いるには、品質と価格に問題があった。

さらに、1956年6月にはブラジル政府が自動車国産化の政策を打ち出し、日本からのCKD輸出は不可能になった。そこで、トヨタ自工は将来のブラジル市場を確保するため、単独で国産化に参加することを検討し、ランドクルーザーの現地生産を計画した。

1957年5月10日、トヨタ自工はブラジル政府に対して、「トヨタ・ド・ブラジル会社設立による国産化計画」の許可を申請した。ブラジル政府からの許可は同年6月28日に下り、1958年1月23日にトヨタ自工100%出資のブラジルトヨタ有限会社(Toyota do Brasil Industria e Comercio Limitada)が設立された。

1958年7月には資金の送金について日本政府から許可を受け、同年10月にエンジンを含む組立用部品800台分を輸出した。そして、同年12月24日、ブラジル市場からの撤退を決めた英国ローバー社現地法人の工場を買収し、1959年5月からランドクルーザーFJ25L型の生産を開始した。これまでのスポット的なCKD輸出とは異なり、トヨタでは初の海外における本格的なノックダウン生産となった。当初の国産化率(重量比)は60%であった。

1961年2月18日には国産化率の引き上げに対応するため、現地生産を拡充することになった。この方針のもと、ブラジルトヨタ株式会社(Toyota do Brasil S.A., Industria e Comercio)へと会社組織を改めるとともに増資を実施し、新工場の建設に着手した。新工場の用地として、同年4月にサンパウロ近郊のサンベルナルド市に約19万m2の土地を買収し、1962年11月12日にサンベルナルド工場を完成させた。同工場の生産能力は月産250台で、機械加工、熱処理、プレス、塗装、組立の各工程を備えた。フレームは内製であったが、ボデーはプレス、組付ともブラシンカ社に外注された。

新工場の機械設備の大部分は、トヨタ自工が現物出資として送ったものであった。そのなかには、1935年に豊田自動織機製作所自動車部試作工場に導入されたフレーム成形用700トン・クランクプレス機も含まれ、修復補強のうえブラジルへ送った。新工場の完成を機に、トランスミッションを国産化したことで、国産化率は80%に上昇した。

さらに、国産化率の引き上げを図るため、ブラジル・ベンツ社製のディーゼル・エンジン(OM-324型、3.4L、渦流室式)を購入することとした。同エンジンは、1962年12月から供給を受け、トヨタ自工製F型ガソリン・エンジンに代わってランドクルーザーに搭載された。同時に、車名を「ランドクルーザー」FJ25L型から、「バンデランテ(Bandeirante:開拓者の意)」TB25L型に変更した。ラインアップの強化にも努め、1963年7月にハードトップ・ロングTB41L型を、翌8月にはピックアップTB51L型を追加して車種を充実させた。

バンデランテの生産台数は、1962年の624台から、1963年に1,510台、1964年に2,242台と順調に増加し、1965年8月には生産累計5,000台目のバンデランテをラインオフした。

その後、1968年2月にはディファレンシャル・キャリアを国産化し、国産化率100%を達成した。また、1969年9月にバンデランテのモデル・チェンジを行い、ランドクルーザーFJ25型系から、同FJ40型系にボデー・スタイルを切り替えた。これにより、新しくバンデランテOJ40型系が誕生した。このモデル・チェンジに伴い、ボデーの内製化を図った。

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