第8節 ITとの融合、新エネルギーへの挑戦

第1項 プリウスの開発とハイブリッド戦略

プリウスを約2年で開発

トヨタの最初のハイブリッド車(HV)開発は、初代クラウンの開発を担当した中村健也主査が、ガスタービンエンジンを活用するシステム開発に着手した1968(昭和43)年にさかのぼる。1当時はHVの性能要求を満たす2次電池が存在しなかったこともあり、1980年代初頭にこのプロジェクトは中断された。

1993(平成5)年には「21世紀のクルマ」に関する議論が社内で高まったのを契機に、プリウスにつながる開発が動き始めた。同年、技術開発の推進体として「G21プロジェクト」が発足し、内山田竹志主査を中心に、21世紀をリードする画期的な燃費向上への取り組みがスタートした。

当初、G21プロジェクトでは、エンジンの効率向上を軸に、燃費性能を既存エンジンの1.5倍に引き上げる目標を掲げたが、技術担当の和田明広副社長からは、2倍という高い目標値がトップダウンによって示された。1994年夏、G21のコンセプトが承認されたものの、この時点ではハイブリッドは考慮されていなかった。1995年秋のモーターショーにコンセプトカーを出すことになり、このモデルには燃費2倍達成の見通しが立つハイブリッドの採用を決定した。

しかし、モーターショー用の車両を開発し始めた1994年の秋からから冬にかけて社内の雰囲気が大きく変わった。そして、市販車もハイブリッドでいくという方針が決定され、同プロジェクトはエンジン改良主体ではなく、ハイブリッドシステムの採用へと転換していった。その成果として、1995年秋には蓄電装置にキャパシタを採用した試作モデルが完成し、東京モーターショーに出品された。

1996年にはハイブリッド開発を加速するため、システム制御や電動ユニットなどの開発部署を一元化し、社内横断のBR(Business Reform)組織を発足させた。この組織は、1997年1月にEV開発部と統合され、「EHV技術部」へと発展した。

同年3月には、駆動モーターと発電機を動力分割機構で1軸上に結合したシリーズ・パラレル型のトヨタ・ハイブリッド・システム(THS)を完成させ、技術発表した。そして、高岡工場での生産体制を整え、年末の発売に漕ぎ着けたのだった。THSの主要ユニットであるモーターとインバーターは内製し、2次電池のニッケル水素電池パックは、1996年12月に松下電器産業(現・パナソニック)と共同で設立したパナソニックEVエナジー(現・プライムアースEVエナジー)が生産を担当した。

初代プリウスは、正式な開発着手から約2年の短期間で、未踏の技術を量産化する異例のプロジェクトとなった。当時、生産技術部門で開発が進んでいた3次元バーチャル方式による組立の検討や、少量生産向けのボデー溶接ラインを採用するなど、全社一丸となった推進体制で厳しいスケジュールを乗り切った。

発売後、初めてのハイブリッド乗用車であることから、初期市場での問題に即応するため、技術、サービス、品質保証の合同チームによる特別体制を敷いた。また、宣伝活動では、1997年に年間を通じて展開した企業広告シリーズ「トヨタ・エコ・プロジェクト」にプリウスを登場させた。「21世紀に間に合いました」というキャッチコピーを採用し、トヨタの環境技術の先進性を強く印象づけた。

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