第5節 戦時下の研究と生産

第9項 航空機の開発と製作

東海飛行機株式会社の設立

1942(昭和17)年6月19日、トヨタ自工と川崎航空機工業の両社は、陸軍航空本部から「航空機製造会社設立要綱」を受領した。自動車工業の大量生産技術に着目したもので、トヨタ自工と川崎航空機の合弁により、航空機用エンジンの量産にあたる新会社を設立せよとの要請であった。

トヨタ自工では、新会社の設立準備のため、同月に航空機部を設けた。そして、8月18日には川崎航空機との共同で、「東海航空工業(株)設立発起人会」を開催し、12月18日に「東海航空工業の会社設立ならびに事業に関する許可申請書」を監督官庁である逓信省と陸軍省整備局へ提出した。

工場建設を急ぐ陸軍は、1942年12月29日付で会社設立の必要性を証明することを回答し、これを受けて、1943年2月18日に東海航空工業株式会社の創立総会が開催された。続いて、3月15日に逓信省航空局から航空機製造事業申請の内許可を、同月17日には陸軍大臣名の刈谷工場設備建設命令を受領した。

こうして、3月19日に設立登記を行った東海航空工業は、同月31日付で逓信大臣あてに航空機製造事業許可を申請し、翌4月1日にその許可を得た。ところが、設立登記後に同一名称の会社が存在することが判明したため、4月8日に社名を東海飛行機株式会社に変更した。

東海飛行機の資本金は5,000万円(1,250万円払込済み)で、出資比率はトヨタ自工が60%、川崎航空機が40%であった。本社は東京都四谷区(現・新宿区)四谷三丁目二番地に置かれ、社長に豊田喜一郎、常務取締役に池永羆が就任した。東海飛行機では、将来の水冷エンジンの製作を視野に入れつつ、まずは空冷エンジンの「ハ13甲2型」1を月産300台製造する計画であった。その後、工場建設中の1943年10月2日に水冷エンジンの「ハ140」2を生産することに変更された。3

1943年3月17日の建設命令に基づき、豊田工機に隣接する刈谷町大字重原の9万9,000m2を利用して工場の建設が始まり、1944年3月31日に東海飛行機刈谷工場が完成した。同工場は航空機エンジン製作用の工作機械や治工具の製造を目的とし、豊田工機の製品と共通していたため、建物の高さや方向を豊田工機の工場にそろえるなど、将来の拡張の際、両社の工場を一体化できるように配慮された。

ついで、1943年11月18日の命令により、衣が原飛行場の北側約66万m2の用地に東海飛行機挙母工場の建設が開始され、1944年9月末に1期工事の鋳物工場が完成した。当時の統制経済下では、民間企業が資金や物資を調達することは困難で、東海飛行機の場合も、用地、建物、機械などの工場設備は、すべて軍需省が手配し、民間企業が工場運営を担当する「官設民営」という方式が用いられた。

しかし、鋳造工場は完成したものの、機械工場の建設は見通しが立たない状態であった。1944年2月にトヨタ自工の歯車課が作成した「ハ140歯車工作機械明細」によると、「ハ140」エンジン月産200台のための設備として、歯車加工用工作機械292台が必要であったが、1944年内の納入予定は81台にすぎず、遅いものは5年先の1949年3月が納期となっていた。東海飛行機挙母工場ではやむを得ず、1944年10月からトヨタ自工航空機工場が生産する「ハ13甲2型」エンジンの軽合金鋳物部品を暫定的に製造し始めた。

そうした矢先、東海飛行機は挙母工場から移転しなければならない事情が生じた。三菱重工業名古屋発動機製作所は、1944年12月13日の空襲で甚大な被害を蒙り、さらに12月22日にも爆撃を受けた。そのため、工場疎開が必要になり、移転先に東海飛行機の挙母工場が選ばれたのである。同月27日付で東海飛行機挙母工場(軽合金鋳物工場)は、民営主体が三菱重工業(名古屋金属工業所)に変更され、三菱重工業第22製作所として転用された。

これに伴い、東海飛行機挙母工場での「ハ140」エンジンの生産準備は事実上中止となった。4また、刈谷工場の工作機械は、トヨタ自動車航空機工場の運営下に置かれ、「ハ13甲2型」エンジンの部品加工に利用された。

このように、東海飛行機は陸軍の方針変更によって、本格的な生産活動に入れないまま、敗戦を迎えた。5

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