第6節 戦後の事業整理と労働争議

第1項 新規事業の模索

繊維関係事業

トヨタ自工では、刈谷南工場(当時の電装品工場、旧・豊田紡織刈谷工場)の遊休施設(旧紡績工場)の活用を図るため、1945(昭和20)年10月に紡織部を設け、残存紡織機の復元と工場設備の復旧に着手した。

1946年3月には紡機3万5,700錘、織機611台の規模で、紡織工場の再開が認められ、豊田自動織機製作所の協力のもとに紡織機の復元を進めた。その結果、同年6月17日から復元織機40台で製織業を開始し、10月には復元された紡機1万3,860錘、織機384台を用いて紡織業を再開した。

さらに、綿紡績設備復元の増加計画が認められ、1950年3月ごろには紡機4万4,216錘、織機635台へと拡大された。このような状況から、紡織部を分離独立することになり、同年5月15日に民成紡績株式会社を設立した。

また、繊維関係事業では、戦後「愛知工業」と社名変更した東海飛行機が平和産業に転換するに際し、「ミシンは平和産業で、人類がいる以上、衣類が必要だから、これは非常にいい」ということで、豊田喜一郎社長からミシンの開発を指示された。1このミシンは「トヨタミシン」として販売され、補給用自動車部品の製造とともに、愛知工業の再出発時における中心的な事業となった。

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