工作機械の自動化と複数台担当

設備機械の修復整備と同時に、工作機械の自動化が推進された。具体的には、板カムを用いた自動送り装置や、マイクロスイッチを使用した自動停止装置などが採用された。これらは、米国視察によりもたらされた技術であった。

工作機械の自動化は、挙母工場の機械工場長大野耐一が提唱していた、一人の作業者による工作機械の複数台担当には不可欠の条件であった。

豊田紡織の技術者であった大野工場長は、1人の作業者が自動織機を20台程度担当するのを経験していたので、機械工場で作業者1人が工作機械を1台しか担当しないことを不合理と考えていた。

1949(昭和24)年8月、それまで機関工場と駆動工場とに分かれていた挙母工場の機械加工部門が統合され、機械工場として一本化された。これをきっかけに、大野耐一工場長を中心に工作機械の複数台担当制の検討が始まった。

1人で工作機械を複数台担当するには、自動送りや自動停止といった工作機械の自動化が前提となる。自動多刃旋盤や各種パワーユニットを用いた自動専用機などを利用して工程を構成すれば可能であるが、それには相当の費用がかかり、小規模の生産量では採算が取れなかった。

そこで、簡易なカム送り機構やマイクロスイッチを工作機械に取り付け、自動送りと自動停止の機能を備えた簡便な自動機に改造する方法を採用したのである。このような自動化の導入により、工作機械の複数台担当制が可能となり、作業能率の大幅な向上が実現した。

なお、1人で複数台の工作機械を担当すると、各人が工作機械の工具(刃具)を研ぐ時間的余裕がなくなり、工具研磨を専門化する必要が生じた。このため、1951年11月に全機械工場に集中研磨制度を導入し、工具の回収、再研磨、配達を中央工具室が行うことになった。

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