「設備近代化5カ年計画」前半の成果

トヨタ自工の機械設備は老朽化し、既述のように、1950(昭和25)年末には10年以上経たものが53%と半数以上に達していた。このような状況から、老朽設備の更新と能力増強が企図され、1951年2月に「設備近代化5カ年計画」(1951年4月~1956年3月)が策定された。同計画の目標月産台数は、1951年3月の月産実績1,542台の約2倍にあたる3,000台であった。

5年間の設備投資総額は約58億円で、第1年目の1951年度に約7億円、翌1952年度には約6億円の投資が計画された。1951年の計画は老朽設備の更新を主体とし、国内機械メーカーの供給能力が乏しかったため、旧賠償指定機械の取得と、外国製工作機械の輸入によって補充を行った。

1952年には試作・試験が進行中であったR型新エンジン(1,500ccクラス)の生産設備の新設を重点的に進めた。1953年4月の生産立ち上げを目標に、刈谷工機(豊田工機が戦後の一時期用いた社名)1が設計・製造した専用機や治工具を導入した。なお、R型エンジンの開発は設計変更により遅延し、実際には1953年9月の生産開始となった。

この時期の新設設備で注目されるのは、1951年6月に稼働を開始したクリヤリング型内製2000トン・プレス機である。それまでは、1935年に導入された小松製作所製の乗用車フレーム用700トン・クランクプレス機が稼働していたが、トラック用フレームを成形するには、金型を前部と後部に分割して製作し、2度に分けてプレスしなければならなかった。こうした能力不足を解消するため、2000トン・プレス機が導入されたのであるが、この間の経緯を振り返ると、およそ以下のとおりである。

1940年7月、商工省が主宰する自動車技術委員会から、トラックの足まわり強化と積載量増大が要請され、4トン積みKB型トラックの開発に着手した。そのフレームを成形する大型プレス機を米国から導入しようとしたが、ヨーロッパで戦火が拡大していたことから、大型プレス機は輸出禁止となり、入手できなかった。

そのため、1941年夏ごろ、住友機械の協力のもとに、車体部の中村健也が担当して社内で製作することになり、神奈川県の鋼板工業が所有するクリヤリング社製2000トン・プレス機をモデルに設計を開始した。1944年初夏までに大物部材の仮図面が完成し、製作に取りかかったものの、戦況の悪化から中断を余儀なくされたまま、終戦を迎えた。

1946年4月、「臨時復興局」による設備復旧が始まるとともに、2000トン・プレス機の製作も再開された。駆動装置などを担当した住友機械の協力により、総重量216トンのクリヤリング型2000トン・プレス機の据付が1951年4月に完了し、6月から稼働を開始した。

このクリヤリング型2000トン・プレス機は、トラック用フレームの製造に用いられたばかりでなく、トランスファー・プレスのような使われ方もした。すなわち、横長のスライドとボルスタを利用してプレス型を4個取り付け、ストロークごとに成形パネルを手送りでプレス型間を移送し、プレス部品(ブレーキ・バッキング・プレートなど)がストロークごとに完成する方法である。

設備メーカーの協力を得たとはいうものの、大型プレス機を自社でつくったのであり、トヨタの自助努力によるモノづくりの精神を象徴する記念碑的な設備であった。なお、この2,000トン・プレス機は、2006(平成18)年にタイ国の武部鉄工所現地法人のフレーム製造工場に移設された。

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