豊田工機株式会社の設立

工機工場は、挙母工場の建設に対応して、1937(昭和12)年6月に豊田自動織機製作所内に設置され、工作機械や工具・治具などの製造にあたった。翌1938年11月に挙母工場が完成すると、1,300坪(4,300m2)の工機工場が稼働を開始し、大量生産用の専用工作機械の開発・製作を担った。

工作機械の製造を促進するには、「工作機械製造事業法」の指定を受け、その恩典を利用するのが有利であった。しかし、トヨタ自工はすでに「自動車製造事業法」の適用を受けており、同一会社に対して二つの事業法の適用は認められないため、工機部を分離独立することになった。

1940年11月25日、「工作機械製造事業法」により新会社の設立が認可されると、刈谷町大字重原の5万7,252坪(18万8,931m2)の敷地に早速工場の建設を開始した。そして、1941年5月1日には新会社の豊田工機株式会社が資本金800万円(400万円払込済み。トヨタ自工は300万円を出資)で設立された。経営陣は、社長に豊田利三郎、副社長に豊田喜一郎、常務取締役に菅隆俊が就任した。

1940年10月の雑誌『工業評論』は、豊田工機ほか6社が「工作機械製造事業法」により許可されたことを紹介したうえで、今回の指定は「特殊工作機の国産化政策と睨み合わせて許可するもので製造機種は全部新機種である点頗る注目される」と述べていた。1特殊工作機械とは、これまで輸入に依存していた自動旋盤、精密卓上旋盤、精密卓上ボール盤、精密中グリ盤など19種類を指し、このうち国産化されているのは数種類にすぎず、製作メーカーも5~6社にとどまった。なお、「工作機械製造事業法」による許可会社は、1940年末時点で21社、24工場であった。

豊田工機は、自社工場が完成するまでの間、本社・工場ともに挙母工場の工機工場を用いた。ようやく1942年6月に刈谷の機械工場が完成し、翌7月中旬から操業を開始した。2

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