トヨタ車体工業株式会社の設立

1938(昭和13)年の挙母工場の操業開始に伴い、刈谷の自動車組立工場は車体工場(刈谷工場)に転用され、軍用トラックのボデー(キャブ、デッキ)架装を行った。

車体工場の設置は豊田喜一郎の発案である。当時、車体工場の責任者であった立松巌は、喜一郎から次のような指示を受けたと回想している。

自動車製造はとかく採算のとれぬ事業である。そこで先行き万一自動車工業が国営になることがあるとしても、車体工場を分離しておけばトヨタの名前を残すことができる。そこで君は挙母へ移るのをやめて、この空き家でボデーを量産することを考えろ。1


刈谷工場では、既述のとおり、1940年に電装工場でEA型小型乗用車のシャシーを製作し、車体工場木工場で木製ボデーを製作していた。さらに、EC型小型電気自動車や、BA型系電気自動車も、喜一郎の直轄プロジェクトとして、刈谷工場で開発・試作が進められた。このように、刈谷工場は挙母工場と切り離した形で運営され、事実上別会社的な存在であった。1940年11月ごろにはトラック車体部門の分離独立について、商工省に許可申請を行ったが、受理されなかった。

その後、喜一郎が危惧した軍需産業の国営化は現実のものとなった。すなわち、1945年4月1日に「軍需工廠官制」が公布され、同日、中島飛行機株式会社が第1軍需工廠となり、7月9日には川西航空機株式会社が第2軍需工廠となったのである。

こうした状況のもと、トヨタ自工は1945年5月20日に再度トラック車体部門の分離独立を軍需省2へ申請し、6月19日に承認された。8月15日の終戦による混乱で手続きは遅延したが、それも8月31日には完了し、トヨタ自工の全額出資により、トヨタ車体工業株式会社が設立された。同社の本社は愛知県碧海郡刈谷町(現・刈谷市)大字大池1番地に置かれ、資本金は900万円(うち135万円は現物出資)であった。社長には豊田喜一郎が就任し、立松巌らが取締役となった。

トヨタ車体工業は、1945年12月に刈谷車体と改称したが、1953年6月には旧社名に復した。同社は、トヨタ自工関連の車体メーカーとしては最初の会社であり、その後多くの車体メーカーが参画するなかで、主導的な役割を果たした。現在のトヨタ車体株式会社の前身の1社である。

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