中央紡績株式会社の発足とトヨタ自工への合併

戦火の拡大に伴って綿貿易は停止され、紡織会社は大幅な操業短縮を余儀なくされる事態に陥った。これを受けて、豊田系紡織会社も再編が進められ、1942(昭和17)年3月11日に豊田紡織、豊田押切紡織の2社と、東洋棉花系紡織会社の中央紡織、内海紡織、協和紡績の3社が合併して、中央紡績株式会社が設立された。1

1943年6月1日には「戦力増強企業整備要綱」が閣議決定され、繊維工業などの工場、機械、労働力を軍需工業に転用するため、企業整備(再編成)を推進することになった。この方針に基づき、同年8月5日に商工省は「綿スフ紡績業整備要綱」を策定し、綿スフ紡績業の軍需産業への全面的な転換を開始した。

一方、1943年1月に航空機用エンジンの製造を要請されたトヨタ自工は、これに応えるべく、中央紡績の経営資源を活用することとし、同社の合併を決めた。トヨタ自工と中央紡績の両社は、同年9月10日に臨時株主総会を開催し、合併を承認したのち、11月3日に合併した。

中央紡績から継承した工場のうち、刈谷北工場、刈谷南工場、愛知工場(のちの中川工場)については、1,000万円をかけて改装され、既述のとおり航空機用エンジンおよび同部品の製造に利用された。

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