トヨペット・クラウンRS型の開発

豊田喜一郎の社長復帰が決まった1952(昭和27)年1月、新型乗用車の開発がスタートした。開発責任者に命じられたのは、車体部次長の中村健也である。中村は、自社製クリヤリング型2000トン・プレス機の製作責任者として、10年間にわたる奮闘の末、1951年6月に完成させた実績があった。1

今回の新型乗用車は、ボデーメーカーへのボデー設計・製作の委託を取りやめ、自社内でのボデー製造・架装により、完成車として出荷する計画であった。まず、1952年1月に当時の大口顧客であるタクシー業界へ聴き取り調査を行い、トヨタ自販の市場調査結果なども参考に、これまでのトラック・シャシーの流用とはまったく異なる発想から、乗用車専用シャシーの設計方針を策定した。中村が記した「トヨペットクラウンRS型乗用車の誕生」によると、具体的には次のようなコンセプトが決定された。

最初仕事に着手するため設計方針として、当時売出中のSFを画期的に改良し、床の低い乗心地の良い運転性能のすぐれたものにして、従来の特色である堅牢さを失わず、悪路にも充分耐える車とする。それをさらに具体的に書くと、アメリカ風小型規格一杯の寸法、明るく軽快な感じ、貧弱に見えない車。重量1200kg、タクシー用格安車、1500ccエンジン、リモートコントロール・ミッション、フロント・ニーアクション、最高速100km以上、etcであった。2

そして、大きさは小型車の寸法規格内で最大とし、板金試作車4モデルの製作に着手した。車両型式はRS型と設定され、車名もすでに喜一郎の発案で「クラウン」と決まっていた。3

その製作に取りかかった矢先、1952年3月27日に創業者豊田喜一郎が突然亡くなった。本格的な乗用車の開発は、喜一郎が長年抱いていた構想であり、それがいよいよ実現に向けて動き出したなかでの死に、開発陣の落胆は大きかった。4

スタイル検討用の4試作モデルは、1952年4月23日までに実寸大の手叩き板金製で完成した。1号車は米国「ヘンリーJ」モデル、2号車は米国「キャディラック」モデル、3号車は米国「ナッシュ」モデル、4号車は英国フォード「ゼファー」モデルであった。

その後、1次試作モデルの1・2号車を修正し、同年6月6日までに2次試作モデルとして2台を製作した。さらに、2次試作モデルの両車を1台に合わせて、9月1日までに3次試作モデルを完成させた。3次試作モデルの輪郭は、ほぼ完成車に近い形になっており、スタイルは9月中に最終決定したと思われる。

1953年1月にはRSボデー設備会議を開催し、溶接機5の発注手配を決定する一方、製品設計と並行してボデー内製用設備の検討を進めた。そして、同月中にまとめられた仕様に基づき、RS型乗用車の設計を開始し、3月には試作用図面の作成を終えた。これを受けて、4月4日に豊田英二常務、齋藤尚一常務の連名で「RSに関する件」が発せられ6、試作車の製作段階に入った。

なお、同年5月1日には技術部門の組織変更が行われ、技術部に主査室が設置された。RS型開発責任者の中村は、主査室の主査として、「エンジン、車両の設計から生産準備までを総合して推進」する役割を担った。7

RS型乗用車の第1次試作では、1号車から8号車までの8台が製作された。1号車は1953年6月に完成し、早速実施した走行試験の結果に基づき、「RS第一次試作車改造要領」を作成した。ついで、1号車の改造車と2号車を用いて、9月15日~10月3日に昼夜兼行で交互に挙母・静岡間往復(320km)と、挙母・京都間往復(360km)を走行する試験を行った。1号車の走行距離は、その前の運行試験を加えると1万4,000kmを超えた。

1次試作車8台による耐久試験、シャシー試験、ボデー試験、ベンチ試験などの成果を取り入れ、1954年2月から2次試作車6台(11~16号車)の製作を開始した。7月12日~8月16日には12・13号車を使用し、タクシーの走行条件よりも厳しい2万kmの運行試験を行った。このような試験結果を踏まえ、試作車の改善を進めたことで、最後の試作車である16号車は、サンプルカーとして運輸省認定試験に用いられるほど完成度の高い車両となった。

RS型乗用車の最大の特徴は、ボデーを内製して完成車として出荷することにあったため、ボデーとシャシーを一体ととらえ、総合的な設計を心がけた。製造設備に関しては、設計技術者と生産技術者との密接な共同作業のもとに、工場計画や設備設計を立案し、その際の検討内容は設計細部にも反映された。

ボデー製造では、手作業による打ち出し板金加工を廃し、プレス機で成形した鋼板を溶接する方法を採用した。そのため、鋼板を成形するプレス機や、各プレス部品を固定する溶接治具、それを接合するための抵抗溶接機やアーク溶接機など、機械設備が多数必要となった。ボデー製造設備の費用としては、1954年までに車体工場の建物増築を含めて総額約10億円を要したが、そのうちプレス型だけで約4億円が投資された。8

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